虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

西田エッセイ  第二回  (全10回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」⑰

       「映画に見る男と女とその時代」

 皆さんお元気ですか、私も元気で暮らしております。さて今回から3回に渡って時代別のロマンス映画を紹介します。時代に依って変わる、女性を取巻く環境や、世界観の変遷と共にご紹介したいと思います。

 第一作目はイギリスとフランス合作の「プライドと偏見」。2004年製作、原作ジェーン・オースティン(18世紀イギリスの女流作家)。映画の時代は18世紀後半、ナポレオン帝政時代のイギリス。映画は田舎の小地主ベネット家の5人姉妹を中心に描かれる。主に次女エリザベスの視点に依り展開して行き、彼女が人生の中で何を思い、どう感じ、何を発言し、どう行動して、幸せな結婚に至ったのかが描かれている。人間としてのプライドある生き方と、反対に視野の狭さと不寛容さから生じる偏見を彼女が身をもって経験し、人間として彼女自身が成長して行く物語でもある。

 作者ジェーン・オースティンについて、多分彼女を知らない女性はいないと思う(これって偏見かな?)。恋愛小説の名手で、思想的な深みには欠けるが細やかで冷静な筆致で男女の心の機微を坦坦と描き、現代でもとても人気が高い作家だ。欧米では彼女の小説は恋愛指南書、又は男女付合いのハウツー本として読まれる事もある。現にアメリカ映画に「ジェーン・オースティンの読書会」と言うロマコメ映画があり、女に持てない主人公が読書会を通じてロマンスに巡り合うという内容になっている。

 この映画はある種の会話劇と言っても良い。映画で交わされる男女の会話にはほぼすべて、本音と建前が含まれ、辛辣な皮肉やあてこすり、批判や強烈な批難、さらにメタファーまで含まれる。受け手は瞬時に言葉の言外の意味を察し、即妙に対応しなければならない。女性の言葉をそのまま女性本意として受け取りやすい男性としては、とても難しく、疲れる行為だ。だがある意味仕方がないと言える。この時代、男女が会話を交わせる機会は唯一舞踏会のみで、そこで始めて初対面の男性と言葉を交わす事が出来る。それ以外では親の許しなく、男女が会話を交わすことは出来ず、ましてや触れ合うことなど、ありえない。舞踏会での何曲かの踊りの間に、相手の性格や知識、その他モロモロを値踏みしなければならない、自然と会話に熱が入り、意味深にもなるだろう。

 当時のイギリスに於ける中流階級の女性の立場や結婚について少し知っておきたい。当時のイギリスの女性には財産の相続権がなかった。家の財産は男子のみが引き継ぎ、男子がいなければ親族の他の男子が受け継いだ。女性は受け継いだ男子の許可を受けた場合のみ、そのまま家で暮らす事が出来た。許可がなければ、放り出されても文句は言えない。未婚の女性の労働は、労働者階級には許されていたが、中流階級には許されず、男性の庇護や保護を失った女性が自ら稼ぐことは出来ず、生活の伝手を失う事になる。未婚の女性に残された道は結婚のみである。良き男性に巡り合い結婚をするしか彼女にとって安全に生きる方法は他にないのだ。もし結婚出来なければ一部を除いて悲惨な人生を送る事になる。彼女にプロポーズがあればそれゆえに、大抵の場合彼女は無条件で受ける事になる。勿論、同じ階級で相手にそれ相応の資産があれば申し分のない事でそれ以外はあまり重要視はされないだろう。しかし女性は誰でも、愚かで愛せない性格の男性とは結婚などしたくはないと思う筈だ。だが、この時代女性の方からプロポーズを断るのは男性の面子を潰す事になり、非常に無礼な行為となる。それもあるが故に多くの女性が、プロポーズされれば愛なくしても結婚をする事になるのだ。「愛は築き上げるもので、与えられるものではない」と言う言葉もあるが、女性にとって愛せない人物との結婚は、とても苦痛を伴うものであったろうと思う。

 最後に、私がこの映画で注目したのは登場人物それぞれの性格描写である。主要な人物を挙げると、まず5人姉妹の長女ジェーン。常に寡黙で内省的、思慮深く、時に内に籠るタイプ。主人公の次女エリザベス。雄弁で活発、外交的でかつ批判的な性格。この二人の姉妹は恐らく作者オースティン自身の二面性を投影したものと思われる。作家は自身の性格を物語の人物に投影するのが一般的なのだが、人間の性格には多面性があり、相反する部分が一つの人格の中に必ず多数存在する。ゆえにこの物語に登場する5人姉妹の性格にあまり似通ったところがないのはそれゆえだと思う。次の主要人物は母親だが、彼女の描き方はとても辛辣で厳しい。母親は常に自らの、独善的な行動や考えに対し、ほぼ無批判であり、思慮が浅く不作法で、自己中心的な存在として描かれる。なぜ、こんな母親像を描くのだろう。彼女の小説は彼女が実際に経験した事をもとに描かれた、とするのが定説となっている。彼女は20代の頃に一度結婚に失敗し、同じ頃にこの傑作小説を書き始め、30代を過ぎて新めて手直しをして出版している。多分母親に対しての厳しい表現もゆえなきことではないと思われるのだ。

 男性について見てみよう。まず軍人の中尉、この男はとことん不誠実な女たらしで、甘いマスクと軍服を利用して、金の為だけで女に言い寄り、金を得られないとすると平気で女性を捨てる無節操な男。男の嘘により、主人公エリザベスは、愛するダーシー卿を冷たく情のない男と思い込まされたりもする。もう一人の男性、牧師コリンズ。エリザベスの従兄で、ベネット家の資産の継承者。この男は言うならば無能で自己評価ができない愚かな男。エリザベスに求婚するが手厳しく断られる。これら二人はなぜこれ程も手厳しく描かれるのか、と私は思った。当時スタンダールの「赤と黒」に描かれたように赤(軍人)黒(聖職)は無産階級の男にとって栄達への最善の道だった。栄達を果たせば、貴族階級と肩を並べ、それ相応の敬意を受ける身ともなれる。にも拘わらず作者の両者への視線は厳しい。恐らく彼女は栄達のみを願う人間の欲と無慈悲さとプライドの無さを感じとっていたのかも知れない。プライドは自惚れや高慢とも取られやすい。しかし、作者は男の持つプライドこそ、人間としての高潔さや無私の情、公正さや深い愛情を示し得るものだと言っているのだ。この映画は女としてのジェーンのプライドや、貴族ダーシーの貴族としてのプライドを描いているのではない。人間として、一人の男、一人の女として、プライドを持って生きる事が、そして愛する事がいかに大切な事であるかを語っているのだと、私は思う。

 

 それではこのへんで、ゴキゲンヨウ・・・・。

                        (2020・10・25)