虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

「いろは丸」から・・・

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 わたしは、妄想コンドル・はぐれ一羽純情派??!(藤田まことと「はぐれ刑事純情派」のファンでした)。

 

 空は晴れている。

 船は順調に波を切りはじめた。

(おれたちの船だ)

 と思うと竜馬はうれしくてたまらなくなり上甲板にとびおりると、

 「みんな、唄えや」

 と、前夜、出航祝いの席で自分が作詞、作曲した船唄をうたわせた。

 マストの上にいる者もあり、帆網をたぐっている者もあり、機関室にいる者もあった。

それらがみな唄いだした。

  今日をはじめと乗り出す船は

  稽古はじめのいろは丸

 単純無類の唄だが、潮風のなかで唄っていると、胸が躍るほど楽しくなった。なにやらこのいろは丸が、日本のあけぼのにむかって乗り出してゆくように思われるのである。

            (司馬遼太郎竜馬がゆく』文春文庫)

 

➊夢を、見ました。大洲市が、瀬戸内海の底に眠るあの「いろは丸」を引き上げたのです。『竜馬がゆく』と『宇宙戦艦ヤマト』と『タイタニックを引き揚げろ』(クライブ・カッスラー中山善之訳、新潮文庫)を読んで、観て、狂喜しまくった市長と職員が、ついにことに及んだのです。なんということでしょう。

➋また、夢を見ました。大洲市が、ついに、「いろは丸」を復元したのです。長さ三十間、幅三間、深さ二間、四十五馬力、百六十トン、三本マストを備えた蒸気船の偉容が、長浜港に出現したのです。大洲城を復元したあの市なら、やりそうなことです。

➌さらに、夢を見ました。大洲市が、「竜馬脱藩の道・駅伝大会」をやったのです。高知市上町の竜馬の生家前からスタートし、梼原、城川・野村を通って、大洲・長浜に至るコースです。城川の高川へ行く道筋に竜馬脱藩の道碑が建っておりますが、山の中を走るわけにはいきませんので、国道と県道を使ったコースです。全国の竜馬ファン100チームが参加(俵津からは2チーム)。小中学生や老人が走れる短い区間も設定したので老若男女が出場。南海放送高知放送がテレビとラジオで生中継して、四国中に配信。沿道には50万人が旗を振って声援。大成功で、夜のテレビは全国放送で取り上げ、日本中で話題沸騰!!なんとなんと、大洲と高知の間に立って話をつけたのは、西予市だったのです(伊土同盟か!)。なんということでしょう。 

 

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 外は雨。リョーマの休日に、竜馬大好き人間のわたしは、歴史家・磯田道史さん(テレビによく出るあの人です)の『龍馬史』(文春文庫)を読んでおります。とてもおもしろいです。こんな所にさしかかりました。しばらく、一緒に読んでください。

 

 紀州藩と龍馬は、お金をめぐって争いになっていました。四国の大洲藩にお金を出してもらい海援隊が運用していた「いろは丸」という船が、龍馬が暗殺された年の慶応三年(一八六七)四月、紀州藩の船に衝突して沈没する事件がありました。

 普通、紀州藩のような大藩が相手だと怖気づいて、泣き寝入りをするということも考えられますが、龍馬は違いました。その船と積荷の代金を弁償してくれと訴えたのです。

 龍馬というと「颯爽としたイメージ」がありますが、こういう交渉事になったときは颯爽どころかかなりあくどい。沈没した直後、原因がわからない状況で「万国公法」を持ち出したのです。船同士が衝突しそうになった時避ける方法が、ここには書いてあると主張します。事故が起きるとすぐに「国際法では自分達が正しい」と主張する方便に万国公法を使った。企業の法務部門がやるようなことをすでに行っていたのです。

 紀州藩は、御三家のひとつで、おおらかな人が多い藩ですから、こういう交渉事にあまり慣れていません。なにより対面を傷つけられることを非常に嫌っていました。龍馬は「お金よりは対面が大切だ」という紀州藩の基本方針を見極めて、次第にそこにつけ込んでいきます。

 最初は、「いろは丸」の積荷は「米や砂糖」だったとされていました。ところが交渉が進むと「銃」を積んでいたという話に変わる。当時、小銃は、高くふっかけても数十両以上ではない。仮に一挺を十両と考えると、もし五百挺とか千挺とか積んでいたとしても、たいした金額は要求できないわけです。それに気づいた龍馬は、あるときから「現金を何万両も積んでいた」と言い出します。八万両というと現在の貨幣感覚にして二百四十億円くらいにもなる。龍馬はべらぼうな金額をふっかけたことがわかります。

 このとき沈んだ「いろは丸」は平成の世になって海底調査が行われました。船からは金塊はおろか銃すら出てこず、茶碗やワインボトルなどが見つかっただけでした。ですから、龍馬がどういう男だったかということは、この海底調査の結果でよくわかります。このとき龍馬のやったことは日本史上「最大の賠償金の吹っかけ」といっていいものです。いくら龍馬でも悪いことをしたら悪いとみねばなりません。紀州藩からみればやり口があまりにも悪質です。

 龍馬には颯爽たる面もありますが、この事件のように相手が敵だと思ったら、徹底して金を搾り取る恐ろしい面も持っています。その両面を冷静かつ公平にみたいものです。龍馬は交渉を有利に運ぶためなら、口先で何でもいう面があるということです。 

 そのため、龍馬の発言史料を読むときは気をつけないといけません。例えば、龍馬が「自分は武力倒幕は考えていない」と言ったとしても、それはなにかの意図を持って、わざと言っている可能性があるわけです。龍馬は、才谷屋という商人の血をひいていて、普通の武士とは別次元で生きているようなところがありました。そのことを考えずに龍馬を理解することは出来ないでしょう。

 ですから龍馬を単純に颯爽たる志士と考えるのは、必ずしも適切ではありません。彼の本質は合理主義者の「タフネゴシエーター」であり、相手によって表現や主張を変えて、とにかく自己の目的を貫徹するために、見事な交渉をつづけていくところに本領があるのです。(132~135頁)

 

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 竜馬、すごいね。竜馬だったら、トランプやプーチン習近平金正恩などとも丁々発止がやれるでしょうね。

 あ、そういう話ではないんです。俵津が発展するためには、西予市はもとより宇和島市大洲市八幡浜市が発展しなければ展望が開けない、ということがいいたかったのです。そのために大洲を例に「南予のトッポ話」をしてみたのです。働くところや行くところが増えれば、俵津にU・Iターンの人たちもきっと増えます。わたしたちは、俵津だけを見ていてはいけないのでしょうね。「南予は一つ」という広域的視点が今こそ必要なのだと思います。

 昔、田中恒利先生が代議士をしていたころ、西日本でもっとも貧しいのは(選挙区で云へば)愛媛3区と鹿児島3区(共に当時)だ、ということがよく言われておりました。時代が変わったので、国が変わり、竜馬のような発想力のある人たちがわらわらと出れば、あるいは可能性が発生するかも、と夢をみたいですね。

 南予の人たちが一堂に会して、「南予トッポ話大会」というようなものを開けたらいいな、と思います。現状の閉塞感を吹き飛ばすにはそんなことが必要な気もします。津島町が舞台の獅子文六の小説『てんやわんや』に、四国独立というトッポ話がでてきますが、あんな弾け方、いいですねえ。

 大風呂敷を広げたわりに(!)着地がどうも・・・になってしまったようで申し訳ありません。

 

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 『龍馬史』の巻末の「坂本龍馬年譜」を見ていて気が付いたのですが、文久三年(一八六三)龍馬二十九歳、この年は、わたしたちの「長崎東海」が生まれた年なんですねえ。東海先生、竜馬と同時代の人なんです!ちなみにこの年、竜馬は神戸生田海軍塾塾頭になって軍艦操船技術の習得に懸命になっていました。大政奉還の4年前です。いや、いや、いや、いや。

                           (2020・10・8)