虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

楽しくやろう!俵津農業!

 「希望」を、語らなければなりません。

 希望を語るのは、どうも年寄りの仕事です。「頭の上の蝿もよお追わんようになったもんが何を言うんぞ。」という声が聞こえておりますが、聞こえません。目えもショボショボ、耳も遠おなったおいぼれの身なれど、よぼよぼ、とぼとぼと、膝をさすりながら、希望を見つける旅に出かけましょうか。ロシナンテはおりませんが。

 ※

 宇都宮末夫氏のホームページ(「田舎暮らしを楽しもう」)!http://wwwe.pikara.ne.jp/mikan。トップページの「あいさつ」、いや、「前口上」(「狩渡橋情話」を書いた脚本家の氏にはこちらの方が相応しいでしょう)に、こうあります。「(俵津は)みかん栽培だけが唯一他に誇れるだけの高齢化の進んだ過疎の町です。しかし、近年専業農家の後継者たちが育ち、数十年前とは違った農業経営を志す機運が芽生えてきています。寂れていくばかりの村の中でただ一点、希望の輝きです。」。!!。

 確かにこのところ、彼ら若者の動きが、私の目にも留まるようになっております。若い人たちの姿はまぶしい。頼もしい。老人のわたしのこころにも何かはずんだものを与えてくれます。若い人たちがいるというのは、過疎の町には、ほんとうに、それだけで値打ちのあることだと思います。この年になって、はじめて分かることです。

 でも、かつてわたしたちが就農した頃(1960年代末~1970年代)の年寄りたちは、そう思ってくれていたでしょうか。あの頃は若者が今の数倍、それこそ掃いて捨てる程(!)いただろうから、若者(後継者)の「ありがたみ」は、わかっていたかどうか。味わっていたかどうか。

 末夫氏の文中にある「数十年前とは違った農業経営」云々。

 うんうん、確かに。わたしなりに、それらを列記してみましょう。

①大規模経営化。(7ha経営の農家もある。従来は3haが最大。)

②外国人(フィリピンやベトナム等から)の青年研修生の受け入れをしている農家が出てきた。

③国の「農の雇用制度」を使って、日本人の雇用をしている農家もある。

➃リタイアした農家・耕作放棄した農家の優良農地を購入または借り受け、改造、または全面的園地造成をし、優良品種への改植を進めている。

➄新しい農道をつけ、園内道をはりめぐらし、脱モノラック・脱南水(南予用水全自動スプリンクラー)を視野に入れた作業体系づくりをやっている。

⑥みかん倉庫を、フォークリフトが使えるように、天井を高く広く作る農家が出てきた。

⑦国の「青年就農支援補助金」(年150万円×5年間)の積極的利用。

⑧無茶々園の準組合員に積極加入し、出荷している農家も出始めた。

⑨「百姓百品」(野村)や「南四国ファーム」(吉田)など地区外生産販売団体への加入。

⑩「農作業請負ヘルパー組合」の誕生。

⑪明浜共選(共同選果場)からの脱退農家・自家販売農家の増加。

スマホiPad・パソコンの農機具化。SNSの利用。インターネット販売。

⑬農作業服のファッション化。カッコよく仕事をやっている。

⑭乗用車に「ジープ」を選ぶものがいる。かつてはこんな選択をする農家青年はいなかった。「いき(粋)」の感性が変化している。

⑮親と同居しない形の暮らし方をするものが出てきた。二世帯住宅、敷地内別棟ではなく、他地区に、土地・住居を購入または借り受ける形態。

⑯農業後継者研究園(甘夏・河内晩柑ほか)を持ち、活動資金を調達し、仲間と共に俵津農業ライフを楽しんでいる。

⑰一方、宮崎川の草を刈ったり、野福峠の桜の管理をしたりと、地域づくりにも積極的に貢献・活躍している。

東日本大震災や野村ダム災害の被災地へ、「ボランティア」に行く農家が出てきた。

⑲「余裕の農業」・「遊びの農業」のための「アボガド研究会」が立ち上がった。

 ざっと挙げても、これだけあります。

 

 戦後農家第四世代の時代になったのです。いまの若い人たちには、もう何の「しばり」もないでしょう。自由に思い切り、この俵津の天地に羽ばたいて欲しいものです。

 ※

 玉津地区をはじめ近隣の市町から俵津へ入り込む農業参入者(農家だけとは限らない)も増え始めております(その陰には、農業委員の西森真一郎氏たちの努力があります)。かつて昭和20年代から50年代に掛けて、みかん景気に沸いた時代、吉田の農家の人たちは、町外・県外(大分・宮崎等)へ農地を求めて進出していったことがありました。そこまでの大規模な動きではありませんが、農への若者の回帰が進んでいるということでしょうか。

 わたしは、俵津の農地を守る方法、みかん山を荒れさせない方法、俵津の景観を保つ方法として、とてもいいことだと思っています。さらに市内外の退職サラリーマンや西予市の役場職員だった人たちが、余生を俵津で、みかんつくりをしたり、魚釣りやヨットセーリングをして過ごすライフ・スタイルをつくっていただいたら、とてもいいと思います。

 農地・農業は、もう、農家だけのものではありません。そんな時代はとっくに終わっている。「国民皆農」、それが理想です。俵津の若者・後継者たちがそんな人たちと仲良くやっていくかたちをつくっていただくことを切望します。

 俵津の後継者のいない農家の意識も、ずいぶんと変わり始めております。中でもとくに進んだ考えを持った人たちは、もう農地の「所有権」さえ、放棄していい、と言い出しました。「使ってもらえるなら、(ただで)やってもいい」と。その人たちはもう家や土地や墓やの存続も、自分の死後どうにもならないことを、悟りつくしています(まだ私欲を捨てきれない人ももちろんたくさんいますが)。

 わたしは、ここに俵津の一つの未来の可能性を見ます。農家ばかりでなく俵津(出身者も含めて)の人たちが土地や空き家まで含めて、所有権を捨てよとは言いませんが、「使用権」を、残った若者たちに無償で託してくれたら、俵津の新しい「デザイン」が可能となります。

 いま、共選(東宇和農協明浜共選場)は、加入生産者とその出荷量・生産量の減少で、運営に大変な苦労を強いられております。そしてその苦境を脱するために、隣町の玉津共選との合併話も取りざたされているのが、わたしなどの耳にも入ってきております。わたしなどがいらぬことを言う必要はないのですが、このブログは「まちづくり」がテーマですので、できるだけたくさんの俵津のオルタナティブ(選択肢・もうひとつの可能性)を書いておくことがモットーですので、あえて私見を述べさせていただきますが、わたしは合併しない方がいいと思います。

 わたしは、ずっと以前から俵津(明浜)のみかんは、この町の農協・無茶々園・商人・販売能力を持つ個人農家などが、力を合わせて販売していくべきだと言って来ました。その考えは今でも変わりません。今の多様な販売形態が可能になった時代に、何の販売努力もしないで、ただ集荷してただ東京市場へ送るだけの他人任せのやり方をしていて、生き残れるわけがありません。今残っている全共選農家が、もう一度、知恵を出し合って、新しい「販売」を作っていくことが、主体性を持った「生き残れるまちづくり」に繋がって行くのではないでしょうか。現状では「対等合併」さえ出来ないかもしれない玉津共選との合併は、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の精神からも一考を要すると、わたしは、思います。

 ひとつ提案をしておきます。全量とは言いませんが、その半量くらいでも、無茶々園に販売を託してみませんか。無茶々園に対するアレルギーもほとんどなくなった現在なら、試みてもいいことではないでしょうか。設立以来45年の無茶々園は、それくらいの力はつけている。無茶々園の存在は、もう今では地域の「安全保障」を託せるものになっているのではないでしょうか。幸いなことに、現在の無茶々園の会長は、俵津の宇都宮幸博氏。膝を交えてじっくりと対話してみてはどうでしょうか。冷静になって俵津の将来を、深く考えてみていただきたいと思います。

 あの大きな共選施設も、みんなで使いましょうよ。みかんの箱詰め以外にもいろいろな面白い使い方がきっとできるはずです。

 そうして、みんなで新しい俵津農業(明浜農業)を構築する。農業を通して新しい楽しい人生・暮らし方をつくる。俵津(明浜)の大地と海を縦横に使って、都会の人たちも加わっていただいて、楽しい共同空間をつくる。そうやって、これからを生きて行きませんか。

 もう一度言います!「楽しくやろう!俵津農業!」

 

                          (2020・6・11)