虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

久しぶりです!中川寛泰さん!

 狩江の中川寛泰さんの投稿記事を、4日の朝日新聞「声」欄(読者投稿ページ)で見つけた。ほんとうに久しぶり。お、載ってる載ってるという感じ。待ってました。中川さん、復活ですね。

 

    伊方原発地震 備えなければ

              農業 中川寛泰  

                 (愛媛県 80)

 2月に2回、地震を感じた。2回目は四国電力伊方原発がある南予震源で、マグニチュード5・1。相当気色が悪かった。

 「地震など来ない」とタカをくくって、まさかの時の備えを全くしていない。茶の間の茶だんすの転倒防止もしていない。大揺れが来た時にどこにもぐるか、断水時の備えや、避難時の持ち出し品などの準備を最小限やっておかなくてはと思った。

 しかし、原発に万が一のことがあれば、有機栽培を原点に据え、家族でかんきつ栽培を頑張っている当方の被害は未曽有であろう。瀬戸内の産業は壊滅である。

 次世代のことを考えたら、原発を早くストップさせてほしい、と強く思う。電力は再エネを推進すれば間に合うのではないだろうか。

 防衛のために莫大な予算をつぎ込むより先に、原発の稼働をストップするほうが、安全保障への第一歩だと思うのだが。

 

 狩江には論客が多い。酒井烈さん、宇都宮利治さん、酒井義人さん、西野知さん、佐藤健さん、斎藤達文さん、西村助広さん、原田義徳さん、片山元治くん、大津清二くん、・・・。故人にも多くいた。立花和雄さん、山下佐賢さん、幸地久志さん、佐藤正巳さん、佐藤茂雄さん・・・。中でも、中川さんは積極的に新聞等に投稿することで有名だった。ずっと以前から朝日新聞では常連の投稿者だった。

 ここ5~6年ほどは全く記事が載らなかったので(わたしの見落としかもしれないが)心配していた。去年だったかおと年だったか、(生前の)母をたんぽぽ診療所につれて行ったときに、(風邪をひいたとかで来ていた中川さんと)出会ったので「どうしたのですか。また記事書いてくださいよ」とお願いしたことがあった。それを覚えていてくださったのだろうか。

 わたしが中川さんを知ったのは、青年団の頃。中川さんはすでに退団されていて、直接ではなかったが、青年団資料の中に健筆を振るう中川さんを見つけた。当時わたしは優れた活動を持続している狩江青年団のことが知りたくて、公民館主事をしていた原田さんにお願いして、大狩浜集会所の資料室で過去の狩江青年団資料を閲覧させていただいたことがあった。

 中川さんの書かれたものは、確かな政治・経済・社会状況の分析があり、文章も理路整然として格調も高く、わたしは資料室で一人で唸っていた。同時に、「教育」を大事にして厚い人材網を形成している狩江の風土に対しても敬意を持つようになったのだった。

 ■

 発言する同じ町の人の「発言」に触れることができるのは、ほんとうに嬉しくありがたいことだ。勇気をもらえる。安心する。ここでの生き方を学べる。ものの見方を教えていただける。

 俵津でも、三好昌徳さん(故人)という愛媛新聞に投稿をよくする方がおられた。他の新聞(読売・産経・日経等)に投稿している方もおられるかもしれない。新聞に限らない。他の雑誌等やSNS等にも発言されている方はきっといるに違いない。情報をいただければありがたい。

                       (2024・4・7)

 

 

【寄稿】

    劇団「ぽっくり一座」を!(「じじばばー」2.0へ!)

                           胡瓜

 

 

 光陰矢の如しとは言うものの知らぬ間に、歳を取ってしまった。思えば浦島太郎にでもなったような気分である。そうかといってタイやヒラメの舞い踊りを、見たこともなければうつつを抜かしたこともない。そんな何でもない平凡な人生だとはいえ当たり前に終わりは近づいてくるもので、それを裏付けるように最近ではよく棺桶が早足で迫ってくる、夢を見るようになった。気持ちは青年だといっても身体は確実に衰え膝や腰をいくら励ましても、そっぽを向かれるだけである。

 とは言えそんな私に限らずジジとババと呼ばれる高齢者たちの胸の内は、幾戦練磨の過酷な状況を乗り越えてきただけに、やわではなかった。観客のいる前で喉もさけんばかりに歌ってみたいという煮えたぎる思いを、誰もが持っていたのだろう。そんな熱情に火をつけるのは造作もないことで、あった。一言「出てみんかな」というだけであった。

 その一言を発したのは、誤解されてはいけないのでここでは名前を伏せておく。それは私が浜の諸葛孔明と尊敬する、三才年上の先輩である。彼は左派系であり私は右派系である。互いに意見の相違対立することはあっても、目指す頂きは同じところを目指していて、付き合いの中で煩わしさを感じることもなく、私のよき理解者でもある。

 そんな彼からジジババ祭りの今後の運営について、意見を求められた。運営主体の老人会の中で運営方針をめぐり、意見の対立があるらしい。しかしそんな対立を解決できるような、妙案は私にはない。まして新人会員の私などが出しゃばったことなど、言外である。田舎社会は究極の序列社会で目下の者が目上の者に意見など、憚られる社会である。それは生まれた時から築きあげられたもので、容易には変わらないことである。

 妙案といえるかどうか最後に一つ。ジジババ祭りも二回開催され誰がどのような芸を持っているか又どのようなことがしたいのかおぼろげながらにも、分かってきているのではないかと、思う。そこで有志を募り(仮称)ぽっくり一座なる劇団を、作ってみたらどうか。そこで他地域の芝居好きの方との交流を深め、「ぽっくりを見てから死のう」を合言葉に、老人会活動を活発化させては、どうであろう。

                             (2024/4/3 記)

彼らに、言って聞かせる言葉はないか。

 自民党国会議員に、言って聞かせる言葉は、あるだろうか?

 ある。山ほどある。星の数ほどある。鳥取砂丘の砂の粒ほどもある。国民の8割が怒っている、その怒りの言葉が、それだ。怒っていない(と思われる)残りの自民党支持者たちの中にも(声に出しては言えないだろうが)、忸怩として「これではいけない。何かを言わなくては。」と思っている人たちはいるだろう。

 だが、問題は、彼ら自民党国会議員に果たして「聞く耳」があるか、ということだ。ない。誠に残念ながら、ない、とわたしは思う。馬耳東風、馬の耳に念仏、蛙の面に小便・・・(馬や蛙に失礼だが・・)。

 彼らはおそらく「証人喚問」にも「第三者委員会の設置」にも応じないだろう。政倫審(政治倫理審査会)でもう禊は済んだと思っていることだろう。こんなことで許されていいのだろうか。いいはずがない。

 自民党は派閥の政治資金パーティー裏金事件を受け、派閥に代わり党本部として中堅・若手議員教育を来月開始する方針を固めたという。人材養成の党内組織「中央政治大学院」を強化するということだそうだ。

 これって、おかしくないか。誰が「教育」するのだ。犯罪を犯した党のリーダーたちが若手議員に向かって何を言うのだろう。より巧妙なバレない「裏金作りの方法」でも教えるというのだろうか。

 わたしが僅かに期待するのは、前回でも触れた村上誠一郎さんだ。村上さんは「石橋湛山」を師と仰ぐ。範とする。確かに石橋湛山は、それに値する人物だ。かつて自民党の首相を務めたこともある人だったから、村上さんにとっては余計にふさわしく思えるのだろう。

 それはいい。けれども、範とし師とする人は、もう一人いるのではないか。

 孔子、である。『論語』である。「最上至極宇宙第一の書」(伊藤仁斎)、これこそが自民党議員(のみならず政治家全員)の立ち返る場所ではないのか。「聞く耳」を取り戻して、「聞くべき言葉」ではないか。

 『論語』は、政治家の適格性を判断するリトマス試験紙である、試金石である(とわたしは思う)。これを読んで胸を熱くするような人でなければ、政治家になってはいけない。願望を込めてわたしは、そう思う。

 村上さんには、若手50人ほどを引き連れ、新党を立ち上げ、幕末の吉田松陰島津斉彬のような立場(役回り)を演じていただきたい。ゼヒ!

 さて、『論語』。すばらしい訳書、あります! 高橋源一郎さんの『一億三千万人のための『論語』教室』(河出新書。1200円+税)

 二階俊博氏は裏金で3500万円ほども書籍を買ったという。村上さんには、数百部買って頂いて心ある若手議員教育の「テキスト」にしていただきたいと思う。

 折角の機会だから、わたしが読んで感動した条(499条すべてだが)の一つだけ(35)をここに取り上げさせていただこうか(原文の読み下し文は省略して、高橋さんの訳の部分のみ)。

 

 魯の君主、哀公がセンセイにこんな質問をした。

「どうしたら、国民に政府を信頼してもらえるだろうか。ぜひ、教えを乞いたいのだが」

 すると、センセイは哀公に向き合うと、はっきりこうおっしゃった。

「よくお聞きください。大切なことは、行政のトップにウソをつかない人を置くことです。そうすれば、黙っていても、国民は政府を信頼するようになります。その逆に、ウソつきをトップに据えてご覧なさい、政府への信頼は地に落ちて、誰も信用しなくなってしまいます」

 (センセイ、つらすぎて、わたし、この部分を平静な気持ちで訳せません……ちょっと、現代日本に降臨して「喝!」ってやってもらえないでしょうか

 

 どうでしょうか、この高橋さんの訳。太字部分の高橋さんのコメントも絶妙です!

 さあ!政治家の皆さん!この「高橋さん論語」で広大で誇らかな政治の宇宙を切り拓いてください!「仁者」になってください!「君子」になってください!それが今日本に一番必要なものなのですから。

※ 高橋さんは、別な条(76)のコメントでこんなことも書いている。

(『論語』を読んでいると、「修養」や「礼節」ということばから想像される、古めかしい倫理の世界ではなく、そこにはもっと別の世界が存在しているように思えてくる。それは、ソクラテスアリストテレスの哲学にも似ているし、ときには、マルクス唯物論や社会科学的なものにもです。そりゃそうでしょう。なにしろ、センセイの学校は、現実を変革する政治家を養成することを目的とした場所だったんですから。)

 世界の古典の中でせめて『論語』くらいは、生きているうちに読みたいなと思っていた。でも、本屋に並んでいるいろいろな学者の訳の『論語』、わたしにはどうにも難しくて手に取る気がしなかった。そこに、大好きな作家の高橋源一郎さん訳の『論語』が出た、しかも新書で。これだ!と思って買った。読んだ。おもしろかった。

 むかし教科書に載っていた論語の数条でわたしは、「孔子先生の学校はなんか楽しそうだな」という感触だけは持っていた。高橋さん訳でその気持ちはますます高まった。

 

 『論語』で思い出したことがある。中学3年の三学期頃だっただろうか。歴史の先生で二宮先生という人がいて、突然という感じで、『論語』を生徒のわたしたちに語り始めたのである。授業そっちのけ、という感じだった。先生のあの情熱の出何処は何だったのだろう? と今でも時折思う。あの時代は日本が「逆コース」を歩み始めたころで勤評闘争などあって、心ある先生たちはずいぶん悩んでいたのだろう。それが先生を「論語の世界」に向かわせた、とわたしは解釈している。当時先生が話された内容はまったく覚えていないのだが。

 どうにもならない、むなしい、現在の日本の政治の世界を思いながら、希望の言葉を見つけたい思いで今日は書いてみた。

                       (2024・3・26)

 

 

なんぼなんでもこれはもうあかんやろ。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思えば

                            (藤原道長

「世にもすぐれた人よ、君は知力でも武力でも優れた評判の高い偉大な人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにだけ気を使っていて、恥ずかしくないのか。評判や地位の事は気にしても、思慮や真実には気をかけず、精神をできるだけ優れたものにするということにも気を遣わず、心配もしていないというのは。」

プラトンソクラテスの弁明』、水谷千秋『教養の人類史 ヒトは何を考えてきたか?』文春新書より)

「社会の強さは、最も豊かな人たちが持つ富の多さではなく、最も脆弱な立場の人たちの幸福によって測られます。誰もが快適で、尊厳のある人生を送る機会があるかどうかを問わなければなりません」

(サンナ・マリン首相、堀内都喜子『フィンランド 幸せのメソッド』集英社新書より)

 おっ、この人は!と目をみはって仰ぎ見るような人間はいないか。司馬遼太郎がその小説で取り上げたような魅力的な「漢(おとこ)」はいないか。愛と希望を語ることのできる政治家はいないか。フィンランドのマリン首相のような「志」を持った政治家はいないか。

 いない。一人も。あゝ、自民党。あゝ、そこの政治家。

 政界がゆれている。自民党が揺れている。大激震だ。「自民党とカネ問題」。

 マスコミは、これを「キックバック」「裏金」「還付金」などの言葉を使って報道していて、どこも “集団犯罪” として取り上げようとはしていないが、これはまさしく自民党議員の総辞職、自民党の解体、を問題とすべき重大な犯罪問題であるとわたしは思う。

 政治資金規正法違反(収支報告書不記載)、所得税法違反(脱税)、公職選挙法違反(買収。不適切な地盤培養行為など)、憲法違反(納税義務、99条の遵守義務)。同時多発的にこれほどの大規模な法律違反を起こしたということは共謀罪法にも触れるかもしれない。

 孔子は、「まず名を正せ」と言った。

「日本人はアジア太平洋戦争の際に、侵略を「聖戦」と呼び、侵略軍を「皇軍」と呼び、退却を「転進」と呼び、全滅を「玉砕」と呼び、自爆攻撃を「特攻」と呼び、自分の国のことを「神国」と呼んだ。このような歪んだ名を与えて思考すると、何が起きるかは明らかであろう。これが「名を正す」ということの意味である。」(安冨歩『生きるための論語ちくま新書

 「犯罪」(それも極めて深刻な)として扱わなければ、やがて事態はまたうやむやにされてしまうだろう。そして、腐敗政権がこの国で永遠に続くことになる。

 日本が沈んでいる。

 名目GDPはドイツに抜かれて4位になった。国民の豊かさの指標である一人当たりGDPは32位。男性の平均賃金は韓国に抜かれ、ベトナムにも抜かれそうな低賃金国になった。労働生産性OECD38カ国中30位。正社員の男女賃金格差は35位。ジェンダーギャップ指数は125位。エネルギー転換は、世界の潮流から遅れ原発回帰へと舵を切っている。異次元の少子化対策と言いながら、一向に好転しない対策ばかりが続けられ、人口減少に歯止めがかからない。株価4万円越えでも、物価高で国民は青息吐息。・・・挙げだしたらきりがない凋落ぶりだ。

 現在の日本の「国民負担率」は47・8パーセントだったか。「5公5民」だ。これもさらに上げるという。やがては「7公3民」になるだろうという人もいる。

 こういう国の現状で、自分たちは税金を納めず(というか国家予算をいかに自分たちの懐に入れるかばかりに腐心する)、やりたい放題、自分たちの事だけしか考えない自民党議員と自民党。「藤原道長の世」以上のもの、かもしれない。

 政権をあずかる自民党議員にはとにかく「カネ」がいるらしい。その使途について田中真紀子さんがこう語っている。

①2世・3世・4世議員ともなると、自分たちの上級階級維持のための衣食住費・交際費などとにかく莫大なカネがかかる。

②選挙地盤維持培養のための費用もまた莫大なものがいる。都道府県議員・市町村議員・その他支持者をつなぎ留めておくためには、買収や飲食供与など日常的に湯水のようにカネが要る。父・田中角栄が病床に伏しているときでも彼らはやって来て「カネをくれ」とせびったという。

 ここから想像するに、これは単に自民党国会議員だけの問題だけではないのだなと、わたしは思った。日本全土にわたる途轍もない腐敗構造のピラミッドができているのだと言わざるを得ない。これで日本が良くなるわけが、ない・・・。

③個々の自民党議員にはまた党や派閥の領袖への貢納金が要るのだという。これも半端な額ではないだろう。

 思うに、こういうことばかりやっていて、彼らはいつ勉強するんだろう。今は(彼ら「選良たち」が)命を懸けるくらいにして勉強しなければ、凋落する日本を救うことはできない。派閥を解消して政策研究会をつくるなどと言っているが、今頃そんなことを言ってどうなるものか。視察研修と称してパリへ公費で観光旅行に行った自民党女性局の面々。自民党青年局の面々の過激ダンスショー。Oh My God・・・

 反社会的集団=統一教会との骨の髄までともいうべき癒着の問題。さらに、創価学会神道連盟、「日本会議」などとの関係を思う時、自民党自体が内部で複雑な化学反応を起こして巨大な反社カルト集団になったのではないのか、と思う時がある。それが言いすぎなら、極めて寛容性を持たない、国民に向けて開かれていない閉鎖集団だとは言っていいのではないか。国民にとって迷惑極まることだ。多くの人が賛成している「選択的夫婦別姓制度」のようなことさえ実現できず、政策の自由度・幅が限定されてしまうからだ。

 しかし、自民党は、この国で、永遠である。

 それらに守られた上に、政官財とメディアの強力な鉄の結合がある。そして、小選挙区制という選挙制度。さらに、政治に関心を示さない国民、がいる(投票率50%の世界)。支持率が20パーセントもあれば十分なのだ。盤石なのだ。そしてさらに、これほど何でも言うことをきいてくれる傀儡をなんとしても手放さないアメリカに守られている(今思えば鳩山由紀夫さんはその桎梏から抜け出ようとした人なのだったな、と評価の気持ちにわたしは傾いている)。

 国民は、膨大なツケを払わされている。これからも、払わされ続けるだろう。

 わたしは、絶望している。ここから抜け出る道はない。しかし、そう思わせることが彼らのしてやったりの思惑なら、絶望してもいられないのではないか。希望を探さなくてはならない。

 村上誠一郎さんが、その微かな希望の一つかもしれない。あの人の存在は、愛媛の誇りかもしれない。村上さんには、かつて新自由クラブを立ち上げて自民党を脱党した河野洋平氏のように、脱党して欲しい。村上さんは誤解している。自民党にはもはや自浄能力はない。自民党の解体こそが最大の希望である段階に、日本は来ているのだ、ということをわかってほしい。石橋湛山を目標に若手議員を鍛えると言っているがそんなことができるとはとても思えない。

 今回の、派閥の会計責任者や秘書たちに罪を着せて訴追を免れた安倍派五人衆を始めとする自民党政治家たちが、国会議場で満面の笑みを浮かべている姿を見た時、わたしはもうこの国は終わりだと思った。あまりのおぞましさに愕然とした。あまりの悲しさにこころが震えた。

 山本太郎さん(と大石あきこさんはじめれいわ新選組の人たち)も希望だ。こんな人たちに政権を任せたい。愛と希望を語れるのは、今の政界で彼らだけだ。

 政党や政治家ではないが、希望を感じさせる優秀な企業も日本にはまだまだある。「世界の革新的企業100社」には38社も選ばれている(その中には徳島の東亜化学工業があると報道されていた)。それらの企業を大きく支援すればこの停滞から脱却できるかもしれない。熊本県菊池郡菊陽町の台湾半導体企業・TSMC(台湾積体電路製造)誘致が話題になっているが、この38社をアメリカのシリコンバレーのように四国のどこかに集積させて、10兆円規模の援助をして育成するような政策をとったらどうだろう(m-RNAワクチンより安全なDNAワクチンを開発する企業もぜひ加えていただきたい)。だが、3300億円の献金をする三菱重工業に1兆円を超える武器開発を受注させるような自民党政権では、もう無理なことは明々白々。

 わたしたちがこの濁世をなんとか生きてゆけるのは、釈迦やソクラテス孔子やイエスやガンディーやマザーテレサや竜馬や田中正造親鸞宮沢賢治・・・やがいたからである。実在の人物ばかりに限らない。赤毛のアンやグスコーブドリやイワンや風の谷のナウシカモンテ・クリスト伯杉下右京葉室麟の小説の主人公たちや、・・・いっぱいいる。またあの人がいるから生きて行ける、希望が持てるというのは何も聖人や物語の主人公に限ったことではない。どの地域にもどの職場にもきっとそういう人はいる。

 けれどもそういう人は、自民党の中にはいない(だろう)。

「現代の日本社会が、企業といわず、政府といわず、大学といわず、民間組織といわず、ありとあらゆる組織において、耐え難いほどの閉塞感に苦しんでいるのはなぜか。それは制度の問題でも、仕組みの問題でも、法律の問題でも、慣習の問題でも、文化の問題でも、グローバリゼーションの問題でも、途上国の台頭の問題でも、少子高齢化の問題でも、なんでもない、と私には思えるのである。それはひとえに我々の社会が君子を欠いており、経営者が小人によって占められているからであり「和」が失われて「同」と「盗」とに覆いつくされているからではないだろうか。」

 「なぜ君子が欠乏しているのか。第一の理由は、人材の登用がおかしいことである。(中略)第二の理由は、君子がそもそも稀なことである。(中略)かくして孝弟は姿を消し、それゆえに仁者は現れず、道は廃れ、義は失われ、礼楽は衰え、和は崩れて同となり、盗がはびこる。そうして必然的に、「民の手足を措く所なし」という事態に至る。」(安冨歩、前掲書)

 わたしたちは今、よほど考えなければならないときに来ている。そう思う。

                         (2024・3・12)

 

 

 

 

 

ウクライナが、心配だ

 ロシアの侵略によって始まったロシアーウクライナ戦争が2年になる。ウクライナにとって芳しくない戦況が報じられるようになっている。ウクライナが負ければこの世から正義が滅びる。人類の数少ない希望の一つが失われる。

 以下は、現状を理解するために、わたしが読んだ新聞や雑誌からの引用です。どれが誰の「言」かは煩瑣なので(まことに失礼ではありますが)いちいちことわりませんのでよろしくご理解ください。これはわたし自身が納得するためのものです。よかったらおつきあいください。

朝日新聞

・同紙の佐藤優氏へのインタビュー記事

・「世界」1月号の松里公孝氏の論考

・同3月号の伊東孝之氏の論考

 

■戦況はどうなっているのか

ウクライナ軍は17日ロシアの進撃を食い止める要衝だった東部ドネツク州アウジーイウカから撤退すると表明した。ウクライナ軍は今後防戦一方の戦い方を余儀なくされるだろう。

・二〇二三年六月五日から開始されたウクライナ軍の反転攻勢は失敗した。反転攻勢の目標は、ロシア内地とクリミアを陸上で繋ぐ回廊を切断すること、言い換えればウクライナ軍がアゾフ海に到達することだった。ウクライナ軍はロシア軍を押し返すことができなかった。ウクライナ軍はこの反転攻勢によって不可逆喪失(死者と重症者の合計)を九万人出している。

BBCの報道によれば、ニ〇二三年前半で手足切断したウクライナ傷痍兵の数は一万五〇〇〇人に達している。医学の水準がまったく違ったにもかかわらず、第二次世界大戦全期間に手足切断したイギリス軍人の総数は一万二〇〇〇人であった。ウクライナがいかに無謀な人海戦術を展開しているかということである。

・「早くやめないと、ウクライナ黒海に面した領域が全部ロシアにとられる可能性がある。米国の軍事支援が先細り、ウクライナは完全に弾切れを起こしています。」

・露ウ戦争は膨大な人命の犠牲を生んでいる。アルジャジーラ紙はロシア軍の戦死者を約五万人と推定している。ウクライナ側の喪失(戦死者、重症者の合計)は、おそらく二〇万人を超える。特にウクライナ側は、すでに民族の再生産が妨げられるほどの犠牲である。

■ロシアはどうか

・生活雑感を述べると、スーパーマーケットは商品で溢れかえっており、西側の制裁効果は全くない。物価はほぼ日本並み。ロシア人の平均月収は九〇〇ドル強で共稼ぎが原則なので、生活は楽ではないが、困窮というレベルではない。

・制裁で外国人観光客が来なくなったことは大打撃のはずだが、その分、国内観光客が増えたので困らなかったという。カフェやレストランは深夜まで賑わっており、COVID-19中の日本のようなことはない。

・ロシア政府は、銃後の市民生活に悪影響を及ぼさない程度に戦闘規模を調整している。テレビを見ていても、報道番組を覗けば普通の探偵もの、歌謡、スポーツなどばかりで、これが戦争中の国のテレビとはとても思えない。

・ロシア政府は、二〇二二年秋のハルキウ州、へルソン州からの敗退の際、戦線を立て直すために約三〇万人を徴兵した。その後は徴兵は行わず、二〇二三年に入ってから一一月初旬までに志願・契約のみで四一万人の兵士を確保したと誇っている。ロシア政府は国民、若者の愛国心の高揚に一定成功しているとみなすべきだろう。

・二〇二二年二月の開戦後、「こんなことなら、(ユーロマイダン革命直後、ウクライナの軍事力がまだ弱かった)二〇一四年にやっちゃえばよかったのに」という意見がロシアのマスコミや政治家の間で広がった。対話の余地は全くない。

プリゴジンの反乱のような右派・好戦派からのプーチン政権批判があったが、先日の反体制派の指導者ナワリヌイ氏の獄死(おそらく殺害されたのだろうと言われている)などから推察すれば、ロシア国内にも戦争反対、プーチン批判勢力もかなりの数がいると思われる。

停戦の道はないのか

・「今秋の米大統領選でトランプ前大統領が当選するような事態になれば、完全にはしごを外された形になる。ロシアは手加減しないでしょう。だから早く停戦に持っていかないと」

・「変化が起きるとしたらウクライナの中からでしょう。ゼレンスキー政権である限り無理です。彼は4州だけでなくクリミアまでの解放を勝敗ラインにした。それを達成できないと敗北を認めたことになります。」

・「4州併合によってロシアの目標があいまいになってしまった。(中略)プーチン大統領は勝敗ラインを明確にしなくなった。実効支配の領域が開戦時より少しでも多ければ、当初目的は達成できたという形でいつでも停戦できるということです。率直に言ってこれは予測していませんでした。」

ウクライナは軍事費どころか年金や公務員給与も西側からの援助で賄っている状況なので、案外唐突に停戦が実現する可能性もあると私は思う。

・高齢者にまともな年金も払えない貧しいウクライナ国家に、(戦争で負傷した)これらの青年のまだ何十年もある人生の面倒が見られるのか。二〇万人の子どもが父親を失ったとすれば、誰が彼らを大学まで出すのか。ロシアに勝ってロシアの賠償金で出すのか。「ウクライナは正義のために戦え」などと言っている人たちが、カンパして出すのか。ウクライナに問題が起きた時だけウクライナに関心を向けるのはやめてもらいたい。ウクライナの本当の苦しみは、この戦争が終わった時に始まるのである。

・停戦交渉に正議論を持ち込むと歴史の議論になり、きりがなくなるので、持ち込むべきではないのである。(中略)新たな戦争を防ぐためにも、露ウ戦争は止めなければならないのである。

■それでも、戦争は続く

・ロシアはその後も四州以外のハリキウ州に軍を送っている。ウクライナ各地を爆撃し、民間人を殺し続けている。併合を認めなければ、痛い目に遭うぞ、併合地を取り戻そうとすれば核兵器を使うぞという脅かしである。

・いずれにせよロシアが何を求めているかは明らかだ。それはロシア人・ロシア語話者に正義を回復するということではない。ウクライナの非軍事化でもない。非ナチ化はもちろんない。ある時点までは中立化を求めていたが、それも自身の行動によって断念せざるを得なくなった。残るのは、プーチンが当初口にすることさえ憚ったあからさまな領土要求である。それを具体的に明示したのが、えせ住民投票に基づく四州の併合だった。

・国連は機能不全に陥っているが、今日の世界平和の基礎はやはり国連憲章にある。国連憲章は加盟国の主権平等の原則に基礎をおき、武力による威嚇または行使を禁じている。ロシアはこの国連憲章の基本原則を踏みにじったが、これを看過すれば、将来の戦争の種を蒔くことになろう。

・かつてフランスの哲学者サルトルは、ベトナム戦争に際して、核兵器を「歴史にノーを突きつける兵器」と特徴づけた。そこにこの兵器の特殊性がある。その前に立ち竦むならば、歴史は止まる。ベトナム人の知恵に学んで、立ち竦むのではなく、いかにして核保有国の裏をかいて、抵抗を続けるかを考えるべきだ。

 ここからは、わたしの思いだが、一日も早い停戦を祈る気持ちはつのるが、どうやったらそれが実現するのかを思う時、天を仰いでしまう。

 欧米のウクライナへの支援疲れが言われるようになっている。アメリカ議会は援助資金を出すことを渋っている。ウクライナ国民の戦争疲れも顕著になっている。若者の徴兵拒否の動きも出るようになっていると聞く。ウクライナとその国民のためにもならない戦争の段階が来ているような気がしてならない。

 かと言って欧米(NATO)が参戦してウクライナと共に戦えば、それこそ第三次世界大戦になってしまう。論理的に言えば(それだけで言えば)そうすべきだというのが正しいのであろうが。

 ウクライナの納得できる停戦案など果たしてあるのか。ロシアの一方的決定に身を任せるしかないのか。

 わたしにはわからない。

                        (2024・2・22)

 

 

 

 

こんなこと、あんなこと

 2月10日と11日は、俵津地区産業文化祭でした。

 例年のごとく、老人クラブも一室をいただき、スペースをつくりました。今年は従来1階和室の一部屋からもう一部屋使っていいということになり倍の空間が得られました。これは大きな意味をもちました。

 まず、展示物の多様性とゆったり展示です。会員のつくった編み物、絵、鉢植え植物、お手玉、古い徳利、などが持ち寄られました。中でも昨年の「じじばばスーパー演芸会」の全出場者それぞれの雄姿を写した写真展示は、俵津老人クラブの華やかさ・パワフルさを空間いっぱいに充満させたのでした。

 また、わたしたちのスペースを「老人喫茶」にしよう、ということで広いテーブルをつくり、コーヒーとお茶・お菓子をふんだんに用意し、看板を出し、来館者によびかけました。多くの方が来てくださり、楽しく談笑していかれました。昔話や時事問題など話に花が咲きました。

 9日の準備から11日の片づけ、その後の仕出し弁当での昼食会までの3日間、役員みんな本当に濃密な時を過ごしました。昼食会の時のことです。尾下容子さんが立ち上がりました。「みんながこんなに仲良くなれたのだから、どうでしょう。1泊2日で旅行をしませんか!」。門家久子さんが拍手します。伊勢富雄さんと永山福重さんが応援演説(?!)します。あまりに突然のことで戸惑い顔の人もおりましたが、すぐに決定です。なんということでしょう!!

 「餅まき」もありました!例年の古希会の人たちがやるという形は崩れましたが、センターとスマイルの共同で実施です。スマイル会長の西田初敏くんのあいさつの後、盛大に餅・菓子・手ぬぐい・手袋などがまかれました。

 永山福重さんが提案した「総会時の余興・カラオケ会」は、1月17日の役員会で「やろう!」ということになりました。問題は、はたして飲食を伴った「総会」が4月14日の時点でできるか、ということです。コロナ第10波がどの程度の収まりを見せているか、にかかっていますが、飲食をしない総会という形がつくれるかどうか、ということもそろそろ考えていかなければいけない段階に来ていることは間違いないでしょう。

 老人クラブは、総会の日に会員全員に弁当(とお茶)を配ることをずっと続けてきました。その弁当を持って参加者に2階大ホールの総会会場に上がっていただく段取りでした。コロナでそれが出来なくなって早4年。今年はどうなるのでしょう?3月26日の決算役員会で最終決定がなされます。

 話は突然変わりますが、昨年のNHK大河ドラマ『どうする家康』はまことにつまらなかったですねえ。人気アイドル・松潤(嵐の松本潤)を主役にしたことでこんな脚本になったのでしょうか。

 関ヶ原の合戦とその後の大坂の陣まで延々と1年かけてやるというのに、すっかり退屈してしまいました。戦国時代の合戦ばかりの大河には、みんなもう飽き飽きしていると思います。

 それは夏ぐらいまででさっさと片づけて、わたしとしては作家の門井慶喜さんが『江戸を建てる』で描いたあの関東平野を作り変えた「大改造劇」を取り入れてほしかった。それこそが「どうする?!」にふさわしいドラマだったんじゃないでしょうか。知られつくした「家康」にまだ比較的人口に膾炙することのなかった分野は、ここじゃないでしょうか。東京湾に流れ込んでいた利根川を大改修して千葉へ向けた。湿地帯で入り江が奥深くまで入り込んでいて飲み水確保に苦労したこの地に上水道をつくった。武蔵野を切り拓き低地や湾岸を埋め立て広大な平地を作り出した。江戸城を中心にした武家屋敷や町人町の配置。産業起し。その他もろもろ。そうした「江戸のまちづくり」を克明にドラマにしてほしかった。

 今年の大河『光る君へ』も、今までのところ、面白くないですね。失礼ですが、脚本が面白くない、主役の二人ミスキャストでは?なんて思ってしまいます。三谷幸喜の『鎌倉殿の13人』『真田丸』、おもしろかった!俳優たちまで面白がって演技を楽しんでいるのがこちらまで伝わって来た!ワクワクしましたねえ。

 何とかしていただきたい。日曜の夜の年寄りの楽しみをつくっていただきたい。と、思う今日この頃です。

 父母逝きてのちの歳月冬菫  (大村市)小谷一夫

 こんな俳句が先日の朝日俳壇に載っていました。私事で恐縮ですが、昨年9月母が他界しました。やはり父母二人共を失うということには特別の感懐があります。両親を無事(?!)見送れたということの安堵もあります。そしてあれやこれや・・・。

 まあそれはそれとして、このブログのテーマである「まちづくり」に関して母のことを少し書かせていただきましょうか。母は青春時代、八人の兄弟姉妹で家族劇団をつくって、あの八千代座で舞台に上がったというのです。「たわらづの花売り娘」だったかという脚本を自分で書き、家族だけで演じたというのです。青年団から頼まれてやったと言っていましたが、大好評だったとか。生前自慢げに語っておりました。そういうことを許した面白くて自由な雰囲気のあった俵津がいいな、とわたしは母たちのことより(それも今思えば大したことだとは思いますが)そっちを思ったのです。長崎東海さんが毎年正月に自ら主宰して「滑稽婦人大笑大会」を、自分で建てた“公会堂”でやっていたという話を彼の日誌で知りましたが、その頃からの伝統が根付いていたのでしょうか。

 ちなみに「家族劇団」はその他にも「石童丸」「父帰る」(菊池寛の戯曲の翻案)などもやったそうです。母はわたしが小学生の頃にはマドロス姿をして藤島桓夫の「帰りの港」なんかを公民館で歌っていたこともありました。

 父も映画好きでした。八千代座にかかっていた映画は必ず見に行っていたようです。この俵津にそんな時代があったのですねえ。

 ついでですから、母のお茶目な面のはなしも。わたしが中一の頃のことです。当時とってもらっていた「中一コース」(現GAKKEN)の俳句欄を目ざとく見つけた俳句好きの母、「おまえの名前を貸してくれ」と言って勝手に自作の俳句を応募したのです(いや、させられたのです)。で、結果は見事(!)特選!(なんちゅうこっちゃ!)

 病める祖母われにすがりて菊ながむ

 俳句欄のトップにこれが載っていた時、目がくらみました。しかも祖母がわたしにすがって座敷から庭の菊を眺めているというシチュエーションの挿絵つきでした。賞品としてわたしに万年筆が送られてきたのでした。これ犯罪ですよね(!)でももう時効ですよね?。これぜんぜん自慢話じゃないです。あまりにソーカイですからずっと覚えていたことです。(ちなみにわたしに俳句の才能はまったくありません)

 旧農協本所横の「ゆめさく・スマイル公園」(まだ名前がないようなのでわたしが勝手につけました)内に「東屋(あずまや)」が建ちました。散歩中の年寄りが立ち寄ってくつろげる場所が出来ました。公園自体は子どもたちが飛び回って遊べるほどの広さはありませんが、子供たちが親たちや地域の人たちと触れ合える場にもなったらいいなと思います。夏の夜にはビヤガーデンなんか開いてもらえるといいと思いますね。

                      (2024・2・19)

 

これは「ジェノサイド」ではないか。

 これはまさしく「ジェノサイド」だ、と思った。パレスチナ自治区・ガザを攻撃するイスラエルの行為に対してだ。第二次世界大戦時、アウシュヴィッツで600万人(その内100万人は子ども)のユダヤ人を殺害したナチスの行為(ホロコースト)とどこが違うというのだろう。ユダヤ人の国(厳密には違うかもしれないが)イスラエルが、かつてのナチス・ドイツと同じことをしている。

 あろうことかイスラエルの国連代表は「ハマスナチスだ」と声高に叫んでいるという。イスラエルにとって「ハマス」は、いや「自由と平等を求めるパレスチナ人はみな、テロリストである」なのだ。

 イスラエルの攻撃は無差別だ。戦闘員(ハマス)も非戦闘員もない。老人や女性・子供もない。病院だろうが何だろうがかまうことはない。イスラエルの司法相は「パレスチナ人の女たちは『その腹の中で蝮(まむし)を育てると言って、女性や子供の殺戮を正当化した』」。子供はまた将来イスラエルに刃向かうハマスの戦闘員になるからともいう。(「」は早大教授・岡真理氏。『世界』1月号)

 さらに恐ろしいのは、ガザ地区を囲う、「天井のない監獄」といわれる由縁の、壁(隔離壁)だ。ナチスの「ガス室」と本質的にどこが違うのか。

 わたしの友が、そのブログ・「私の映画案内」で、このパレスチナ自治区・ガザとヨルダン川西岸で起こっている「悲惨極まりない状況」について論考をあげている。(2023/11/26「獺祭の徒然なるままにNo.9、ハマスは本当にテロリストでナチスなのか?」)。スゴイ文だ。皆さんにもぜひ読んでいただきたい(右のリンクから入って頂きたい)。

 友は、テーマの答えを「ガザにおけるパレスチナ人の状況を考えるとき、はっきりと彼らの行為を非難することができない」と言って、イスラエルの苛烈なパレスチナ支配の状況を列挙している。これが本当に物事を深く考える理性ある者の答えだろう。わたしは深く同感した。わたしはこの文からガザで起こっていることを考えるようになった。

 先に引用した岡真理氏は、「『抵抗暴力』は『対抗暴力』である。対抗暴力には、それを生じせしめるに至る先行する暴力がある。何もないところに突然、降って湧くわけではない。」と言っている。例として、フランスによる百数十年に及ぶアルジェリア支配、日本による朝鮮・台湾支配(集団虐殺)によって起こった反乱をあげて、こう言う。「イスラエルによる七十五年間の止むことのない民族浄化の暴力がなければ、占領がなければ、アパルトヘイトがなければ、ハマースも、「十月七日」もない。」。「ハマス主導によるガザの戦闘員たちによる十月七日の越境奇襲攻撃を、それが生起する歴史的文脈—パレスチナにおける『ユダヤ国家』の建設が、入植者植民地主義による侵略に他ならないという事実—を捨象して『ハマスのテロ』と言ったり、『これはイスラエル自衛戦争だ』と言ったりしてはならない。」「今、ガザで起きていること、それは植民地支配という歴史的暴力からの解放を求める被植民者たちの抵抗と、それを殲滅せんとする植民地国家が、その本性をもはや隠すこともせずに繰り出すむき出しの暴力のあいだの植民地戦争である。」。

 イスラエルのネタニヤフ首相の言動を見ていると、これは正しく的を射ている認識だとわたしは思う。

 「私の映画案内」の友は、イギリスBBCの報道姿勢を教えてくれている。「BBC放送は彼らをテロリストと呼ばない、ましてやナチスなどと表現することもない」「誰かをテロリストと呼ぶことは、どちらかの肩を持つことになる」ということなのだ。「BBCは、ハマス武装蜂起の要因は、今年にはいって過去最高のパレスチナ人の死亡者がヨルダン川西岸で出ていることも重要な一因ではないかと報じている。」。成熟した理性的な大人のいるメディアだと思う。

 日本のメディアの報道とは雲泥の差があるように思う。

 事態の正しい認識がなければ、解決の道も探れない。

 第二次世界大戦後、イスラエル国家の建設と維持を支持し続けてきたアメリカや西欧諸国。日本は中東においては中立的態度を堅持すると言いながら、上川外相は2023年11月3日テルアビブを訪れイスラエルの外相と会談し、ハマスの攻撃は「テロ」であり、「断固非難」するなどと語って、世界中から批判された。

 ガザがこれだけ凄惨で過酷な状況にあるのにG7などの主要国は、即時停戦を働きかけられない。(ウクライナのゼレンスキー大統領が早い時期にイスラエル支持を表明したのには、本当にがっかりした。)

 そんな中で、国連のグテーレス事務総長の発言は、本当に素晴らしい勇気あるものだった。(「ハマスによる攻撃は理由もなく起きたわけではないことを認識することも重要である」「パレスチナの人たちは五十六年間、息苦しい占領下に置かれてきた」)。拒否権を持つ5大国に押しつぶされるような国連運営の中で、よく言えたとわたしは感動を覚えた。(わたしは「拒否権」制度は廃止すべきだと思う。「総会」を国連の最高議決機関にしなくてはいけないと思う。)

 ロシア・ウクライナ戦争でも戦争反対・即時停戦に賛意を示した国が、グローバルサウスと呼ばれる諸国をはじめ過半を示すようになった時代、世界は今回も多くの国が即時停戦を求める意思表示をしている。国際世論は大きく変わり始めている。パックス・アメリカーナアメリカによる平和)が終わった時代。自立を模索する国々が自己主張を恐れることなくする時代になったのだ。日本も「世界世論」をつくることのできる国になって欲しい。

 なんとしても、恒久的な停戦をまずやらなければならない。その上で、パレスチナイスラエルの二国家が共存できる道を探らなくてはならない。今度こそ根本的な解決をしなくてはならない、と思う。

 友のブログに教えられ刺激されて、とりあえずのわたしの思いを記してみた。

                          (2024・2・5)