◯明治43年日誌
【船のこと】
(三島丸と靱丸、硯海丸)
当年も前年に引き続き三島丸と靭丸が俵津近海を航海しています。東海は三島丸のほうをよく利用しており、当年日誌では11月終わりまで頻繁に記述が出てきます。靭丸については、3月24日付の記述(皆江出張に靭丸を利用)を最後に当年日誌には出てきませんが、これは休航したのではなく、東海が利用しなかったためかもしれません(翌明治44年の日誌にも記述が見られるため)。12月に入ると三島丸に入れ代わるように硯海丸(「宇和島運輸会社引受」の汽船、東海日誌について⑰を参照)の記述が出てきます。三島丸の代船として航海していた可能性があります。
(「発動機船海進丸」)
「石油発動機船」や「発動機船海進丸」という言葉が当年日誌に時々出てきます。
5月14日付でこの日「狩浜斉藤某ノ新造セシ石油発動船」が俵津へ入港した、という記述が出てきます。同月30日付では、この日から「石油発動機船」が宇和島・高山・狩浜・俵津間の定期航海を始めた、と記しています。7月23日には和霊祭に「発動機船海進丸」で出発し、翌24日は宇和島から「俵津仕立ノ和船ニ乗リ込ミ、海進丸ニ曳カ」せて俵津へ帰ったとの記述があります。8月17付及び同月26日付でも「海進丸」が航行していることを確認できる記述があります。12月8日付では「本日ヨリ発動機船海進丸俵津碇泊ト変更シ、自邸ニ下ニアリ、午前六時過ギヨリ船笛ヲ鳴シ朝起頗ル便利ニ感ゼリ」と、この日から海進丸の碇泊場所が俵津へ変更されたことが記されています。
まとめてみますと、「海進丸」は狩浜の「斎藤某」が新造した「石油発動機船」で、5月30日に宇和島~高山~狩浜~俵津間の航海を始め、12月8日には俵津(しかも東海邸の下)へと碇泊場所を変更した(それまでの碇泊場所は不明)、ということがわかります。
この海進丸については『明浜町誌』に若干の記載がありますので、そちらもご参照ください。
【郡参事会員辞任と村議辞職】
この年も東海は引き続き郡議、村議ですが、2月21日に「当日郡参事会員ヲ辞表ス」と郡参事会員を辞任した記述があります。郡議については継続して務めています。
村議については、1月10,11日の村会を欠席し、2月7日の臨時村会も欠席しています。3月23日の村会も欠席。この日付で「議員ノ辞表ヲ提出ノ考ナレバ、自後出席ハセザル考ナリ」と記しています。1ヶ月後の4月21日の村会には出席したようですが、「自分ハ感ズル所アリ本日辞表提出セリ」と記しており、この日東海は村会議員を辞職しています。詳しい理由は不明です。これ以降当年日誌では村会に関する記述が見られません。
実は、この年の2月23日に娘の愛香が21歳の若さで死去しています(病気のため前年春に東京(日本女子大在学)から帰郷し自宅療養中)。日誌で明記はされていないものの、郡参事会員の辞任、村議の辞職は娘の死去が影響したことも考えられます。
【自然のこと】
(ハレー彗星)
この年ハレー彗星が地球へ接近しました。日誌にも関係する記述が見られます。
5月17日付。「当時彗星顕レ世間種々ノ風説アリ、迷信家ハ騒ギ立ル模様ナリ、来ル十九日彗星(ハーレー彗星)ガ地球面ニ接シ衝突スルモ難計トノ新聞アリシ故ナルベシ、当夜三時頃晴天ニ付彗星見物ニ出懸ル人多シ、兎苗及病院職員等星見ニ起キタリ(午前三時)」
5月19日付。「本日ハハーレー彗星ガ地球ニ接近スルト云日ニ〓(して)、俗民ハ一般憂慮シ、休業セシ者多々アルガ如シ、自分モ午前三時頃起床眺望セシニ、星ハ見ヘシモ尾ハ充分ニ認メ兼タリ、本日ハ患者大ニ減少セリ、是迷信家ノ彗星接近説アルニ因スル〓(こと)ナルベシ」
17日付では、世間にいろいろな風説が流れて迷信家が騒ぎ立てたこと、19日に地球に衝突するかもしれないとの新聞記事が出たこと、それでも彗星見物に出かけた人が多かったことなどが記されています。19日付では、ハレー彗星の最接近日のため休業した人が多くあったこと、東和病院も患者が大いに減少したことなどが書かれています。この日は「星は見えたが尾は十分には見えなかった」と東海は記しています。
その後5月22日付で「当夜晴天ニ付彗星実見セリ」、同月29日付では「当夜彗星明ニ顕ル」と記しています。最接近日から少し経って、東海はハレー彗星をはっきりと目視できたようです。
(海水浴)
7月9日付で「極早朝離床、萩森車夫ヲ随ヘ船ニテ楠ノ浦ニ至リ海水浴ヲナス、是レ自身養生ノ為也、神心頗ル爽快ナリ」という記述が出てきます。これが東海日誌における、東海自身の海水浴に関する初出の記述となります。ごく早朝に「楠ノ浦」で「自身養生」のために海水浴を実施し、心身とても爽快だ!と記しています。その後も17日まで毎日海水浴を実施しています。早朝に家族などを連れて「楠ノ浦」で海水浴、というのがお決まりのようです。ちなみに、7月16日には「卯ノ町校生徒」130~140名が海水浴のために俵津にやって来た記述もあります。
(気温)
当年日誌には、時々ですが気温の記述が見られ、計27件を確認できます。
1月31日付で「室内ノ温度離床時摂氏四度、障子外即軒下ハ零下一度ヲ示ス、手水鉢氷リ、実ニ自分来村以来ノ寒気ト感ゼリ」(室内4℃、障子の外軒下-1℃)との記述があり、これが初出となります。翌2月1日には「障子外零度」(0℃)、同月2日には「障子外零下一度ヲ示シ、降雪尚止ラズ、四方白雪銀世界ヲナス」(障子の外-1℃)と、この頃俵津に寒気が入ったようです。
春の気温の記述はありません。
夏。7月10日付で「暑気八十二度ヲ示ス」(27.77℃)との記述があります。これは摂氏ではなく華氏での表記です。この頃東海は寒暖計を入手したのか、この日以降気温を書き付ける頻度が増しています。ちなみに7月10日は東海が海水浴(先述)を開始した翌日にあたります。8月2日、3日、15日、16日は「暑気甚シク」や「大暑」などと書いており、とても暑かったらしく、いずれの日も「九十度」(32.22℃)と記しています。8月22日には気温の記述はないものの「当夜蒸熱甚シク、本年夜暑ノ第一位」と、暑さのピークを迎えているようです。
9月に入っても暑さは続いたらしく、9月1日付では東海宅ではないものの「旧駐在所」の気温が記されており、「九十二度ニ及ブ」(33.33℃)と書いています。9月半ば以降は時々の残暑はあるものの気温は落ち着いてきているようです(おおむね20℃台)。
11月に入ると、11月17日付で「夜来強風ニ〓(して)寒気頓ニ増加シ、室内五十度ニ下降シ、暖気俄然寒気ニ変ズルヲ以感甚シ」(室内10℃)との記述があり、翌18日にも「寒気依然五十度ナリ」(10℃)と記されています。翌日の19日には「山奥四方山頂雪ヲ戴キタリ」と山奥方面の山々の頂が雪化粧したと書かれています。
12月に入るといよいよ冬本番となり、12月3日付で「シブチ日和ナリ、寒強ク四十六度ヲ示ス」(7.77℃)、12月10日付では「寒気ニ〓(して)室内四十八度ニ下降ス、早朝霰降ル」(室内8.88℃)と早朝に霰が降ったことも記されています。12月11日は「寒気ニ〓(して)雪ヨリ雨トナリ、宇和地方ハ積雪甚シトナリ、華氏三十八度ニ下降ス」(3.33℃)とこの冬一番の冷え込みとなり、宇和は積雪し、俵津でも初雪が舞ったようです。
今の気温と比べていかがでしょうか?
(漁と魚)
東海日誌には漁や魚に関する記述も多く見られます。
2月15日付で「白魚初漁」の記述があり東海も買い求めています。3月11日付では「当時烏賊釣盛」と記しており、13日付では病院職員などが実際に烏賊釣りに行く記述があります(東海は往診のため行けず)。4月27日付で「鯔漁ヲ実見シ快呼セリ」という記述。5月12日付で「エソ・鯔等」を買い求めて調理(魚飯)した記述。5月14日には「松魚」を買って調理し、会食しています。6月22日付では、田之浜で「藻ボシ」という一貫(3.75kg)余りの魚を買って帰り調理しましたが、「世評ノ如ク美味ナキ魚ナリシ、再ヒ求メザルベシ」と不満を記しています。6月24日には狩浜で「小鮪」がたくさん獲れたらしく、東海も買い求めています。7月12日付では「新田谷川ノ川狩ニ行ク(略)、獲ル所ナク」と新田の谷川で川狩りをしたものの獲物が
なかったと記しています。同月19日にも「新田奥ノ谷川」に行って川狩りをしており、この時は「僅ニ小鮎六疋、其他川鰕類少々ヲ獲タリ、月夜ナルヲ以得難シト云ヘリ」と、小鮎6匹とそのほか川エビなど少々を獲っていますが、「月夜のため漁が難しいとのこと」と記しています。8月に入ると「松魚」「小松魚」が近海で獲れ始めたようで、6日付及び15日付で「小松魚」が「大漁」と記しています。9月10日付では「ホータレ漁盛」と記されています。9月24日には東海は「イトヨリ釣」に出かけています。11月23日付では「当時本宅西側網代ニテ毎夕ジヤミノ漁アリ、曳毎ニ二銭・五銭ヲ求ム、二銭ヲ以テ買フモ五銭ヨリ多キ〓(こと)アルヲ以、毎回二銭ト定メ下婢ダイヲ〓(して)買ハシメ一笑ニ附セリ」と記されています。この時は「ジャミ」が獲れ過ぎたのでしょうか、値付けが適当になってしまっていることを東海はおもしろがっています。
【祭りなど】
(和霊神社)
7月23日付で「明廿四日ハ和霊祭ニ〓(して)、本年ヨリ新暦ニ改メ執行スル由、本日ハ宵祭ナリ」という記述が出てきます。和霊祭はこの年から新暦で実施されたようで、この日は「宵祭」にあたり、東海は「俄然宇和島行ヲ企テ」家族らとともに午後2時の「発動機船海進丸」で宇和島へ出発します。宇和島では土佐屋に投宿。同所は「酷炎難堪」(ひどく暑くて耐え難く)、日没まで待ってから「追手通」を散策し「丸ノ内和霊社」に参詣しています。その後さらに「八幡村和霊社」へも参詣していますが、その時のようすを「参詣人山ノ如シ」と記しています。
翌24日は、昼食後に土佐屋を出て帰途に就きます。途中和霊神社(おそらく丸ノ内和霊神社)付近を散歩し、「自転車曲乗興行」を見物しています。和霊祭に合わせたイベントであったものと思われます。午後5時、樺崎出港の海進丸が曳航する「俵津仕立ノ和船」に乗り込み、午後7時に俵津に帰宅しています。
11月5日付では、「宇和島町ハ和霊神社通夜堂、石垣落成及堀大修工並ニ日韓合邦ノ三大祝事挙行ニ〓(して)、天長節ヲ初日ニ三日間一大祝典ヲ挙クル由新聞紙ニ伝ヘ」(宇和島町では11月3日からの3日間、和霊神社(丸ノ内)の通夜堂落成、石垣落成及び堀大修工、日韓併合も合わせた「三大祝事」の「一大祝典」を挙行する、という新聞記事が出た)との記述があります。この新聞を見た東海は「其盛況ヲ見ントテ」、この日実際に宇和島へ見に行きます。しかし「新聞紙ニ伝フル如キ盛況ニ非ズ聊失望セリ」と、実際はあまり盛況ではなかったようで、東海は不満を記しています。
(俵津村神祭)
10月30日付で「本年ヨリ神祭ヲ改メ来ル十一月二日トセシ故、村内一般神祭前ニ付多忙ナルガ如シ」との記述があります。俵津村はこの年に神祭日を旧暦11月15日から新暦11月2日へと変更したようです(その後も神祭日はたびたび変更されていますが…)。11月2日の「改正セシ村ノ神祭日」当日は残念ながら雨となります。東海は病院には出勤せず自宅で来客の対応をしますが、雨のため来客が少なく「残念ニ感ジタリ」と記しています。また、「丑鬼、鹿ノ子踊等」は回って来ましたが、「神輿」は雨のため中止となったようです。例年は賑やかな夜も「閑静ナリ」と記しています。
(吉田祭、狩江祭)
10月15日付で「本日ハ吉田祭、狩江祭ノ為俵津村民ハ半数以上外出セリ、戸ヲ閉チタル家沢山ナリ」との記述があります。この日は吉田祭、狩江祭のため俵津の半数以上の住民はいずれかの祭りへと出かけていたようです。東海は案内を受けていた狩江祭へと出かけ、「例ニ拠リ屋台船ノ狂言、丑鬼、神輿等ノ神役挙行中ニテ、仝村民ハ又大体家出見物スル者ノ如シ」とそのようすを記しています。
(亥の子)
11月6日付で「本日ハ亥ノ子ニテ例ニ拠リ午后ヨリ子供連頬被リ物ニテ亥ノ子搗ニ狂フ、門前ノ土穴製造ニハ閉口セリ」との記述があります。門前の「土穴製造」に閉口したとの記述から、亥の子石によるものだとわかります。同月30日付でも「当日ハ乙亥トテ例ノ亥ノ子搗雨降止ノ間ニ来ル」と、雨の止み間に亥の子搗きが来たと書いています。さらに加えて「此旧幣(弊)ハ廃シタキ者ナリ」とも記していますので、東海は亥の子についてはあまりよく思っていなかったようです。理由ははっきりとは書かれていませんが、「門前ノ土穴製造」が原因かもしれません。
【事件(粥と糊)】
10月27日のできごとです。この頃東海宅は改築工事中で、大工が頻繁に出入りして作業をしていたようです。東海は数日来体調を崩していましたが、この日も病院に出勤して診療しています。昼になって昼食をとろうと自宅に帰ると・・・「下女ダイ食用粥ト糊ト誤リ膳ニ上セシ故、一口ヲ食シ大ニ其不注意ヲ叱責ス、両三日胃症ノ為朝飯ハ粥ヲ命シアリシヲ以間違シ〓(こと)ナリ」。下女が粥と糊とを間違えて東海に出してしまい(しかも朝食と昼食まで間違えています)、律義にも東海はそれを口にしてから「大いに不注意を叱責した」と書いています。この糊はおそらく障子糊と思われます。見た目がとても似ているので間違えてしまったのでしょう。「胃症」を患っていた上に糊まで口にしてしまった気の毒な東海の姿が目に浮かびます。ちなみに、東海はその後体調には特に変化が出ていないようです。
当年日誌にはほかにも、医療関係として、産婆看護婦養成所関係の記述、三島病院・蔵貫医院に関する記述、学校でのムササビ解剖と生徒への講話の記述などがあり、時事的なものとして、韓国併合に関する記述などもあります。
(本文中敬称略)
(2025・10・31)
morinoshimafukurouから
①新発見です!「長崎新田」と刻まれた石柱(石碑)が見つかりました。宇都宮胡瓜さんが知らせてくれました。行ってみると1メートルくらいのものが横たわっていました。いつだれが作ったものか、実際に建てられていた場所はどこなのか、などはわかりません。長崎東海研究会の山下会長に連絡し、今調べてもらっています。わかりましたらお知らせします。
②長崎東海研究会員であり、松山の近代史文庫の会長でもあります冨長泰行さんが、長崎東海日誌の要約本をこの7月自費出版されました。『研究ノート 明浜の「赤ひげ先生」奮闘記 長崎東海日誌各年の要約(明治34年~昭和3年)』。
頂いたご本の一部を、俵津地域づくり活動センター図書室へ、山下会長が寄贈しました。その経緯は「センターだより」9月号に載っていますのでご覧ください。右リンク欄より入って見て下さい。みなさま是非、センターへ足を運んで手に取ってご覧いただければ嬉しく思います。
それにしても、冨長さんといい、このブログに「長崎東海日誌について」を寄稿し続けて下さっている方といい、俵津のわたしたちが範とするに足る偉大な「長崎東海」さんについて、このように熱くご研究をささげていただく方のいることに、こころから感謝申し上げる次第です。本当にありがたいことだと思います。