虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

【話し合い資料】第二の「夕張」になるのか!?―西予市が ❝たいへん❞ です。

morinoshimafukurouから

 わがまち・西予市が大変なことになっています。「深刻な財政危機」になっているというのです。寝耳に水、青天の霹靂、です!

 11月7日の「朝日新聞・愛媛」欄に、大きな見出しで以下のような記事が掲載されました。縁あって、このブログを見ていただいているみなさまのご感想やご意見を伺わせていただきたくて、ここに掲載します。下の「コメント」欄にぜひお寄せください。また、解決策や参考になる書物・資料などありましたら、それもお願いします。

 それから、西予市に「ふるさと納税」などのご支援をしていただければ嬉しく思います。一市民としてお願い申し上げます。

 

 ●西予市が作成した「西予市財政危機脱却プラン2025」は、ネットで見ることができます。興味のある方は検索して見て下さい。

 

                  ◆

  財政危機脱却へ 痛みの改革

 政府が旗を振った「平成の大合併」。収入が実質的にかさ上げされる普通交付税の優遇措置期間が終わり、財政悪化に直面する自治体が全国で散見される。西予市もその一つだ。公共施設の統廃合などを盛り込んだ「財政危機脱出プラン」を策定し、給与カットも打ち出すが、市民からは厳しい声が上がる。

 「実行には市民の皆様の痛みを伴う。しかし慢性的な赤字体質を黒字へ転換するには、改革を避けては通れません」。10月、改革プランの発表会見で管家一夫市長は理解を求めた。

 西予市 大合併の優遇期間の余裕は消えて

底つく財調基金

 市は2018年度以降、自治体の貯金にあたる財政調整基金を毎年度8億円以上取り崩し、赤字を補填。残高は16年度末の48億3千万円をピークに、今年度当初には2億8千万円に目減りした。

 なぜ財政危機に陥ったのか。市は主な要因を二つ挙げる。

 一つは収入減への対応不足だ。

 04年4月に旧5町が合併して生まれた西予市。合併した年度とそれに続く10年間は、財源不足を補う国からの普通交付税に優遇措置があった。合併前の旧5町が別々に存在するとみなし、合算して西予市に交付された。

 15~19年度に優遇措置が段階的に縮減して終了すると、市の収入は年15億円以上減った。予想できた事態だが財調基金に余裕があったため、十分な手を打たなかった。

 二つ目は、負債を管理できなかったこと。市は人口の少なさなどから自主財源が乏しく、インフラ整備などは市債発行という「借金」に頼らざるを得ない。

 だが返済能力以上の借金が常態化。年間の借金返済額にあたる公債費は近年、40億円余りで高止まりしている。さらに西日本豪雨の復興事業や物価高騰などが重なった。

 

公共施設の統廃合 ■市債発行を制限 ■残業半減

 苦境から抜け出そうと、有識者会議の答申も踏まえてまとめたのが、今回のプランだ。

 「集中改革期間」と位置づけた来年度からの3年間で、「貯金ができる健全な財政体質」への転換を図る。財調基金の年度当初の残高を29年度に12億円、35年度に21億円まで回復させるという数値目標を設定。実現への取り組みは主に3本の柱からなる。

 1本目は経費削減のための公共施設の統廃合だ。市内に91カ所ある公園は来年度から順次廃止し38カ所に。20ある体育館も27年度末までに8施設にする。図書館や観光施設の開館日も見直す。

 併せて、施設使用料も値上げする。市施設の火葬場3カ所は燃料費の高騰を料金に反映。来年度から火葬料金を2倍にし、市在住の大人の場合1人2万円とする。

 もう一つの柱は事業や補助金、公債費などの見直しだ。市債の新規発行を制限し、市債残高を22年度の400億円から28年度末までに280億円に減らすという。

 3本目の柱は組織や業務の改革。業務の効率化で残業を減らし、24年度に1億2440万円あった時間外勤務手当を半減させる。

市民は厳しい目

 危機脱出プランとは別に、来年度から2年間の給与削減も行う。管家市長の40%をはじめ、ほぼ全ての正規職員も1~5%カットし総額約1億6千万円を削る。

 だが、市民の目は厳しい。81歳の女性は「今になって慌てるのは遅い。見通しが甘かったのではないか」と指摘。76歳の男性は「図書館などの開館日が減るのは困る。市民の負担になるやり方には疑問がある」と話した。

                          (川村貴大)

 

                       (2025・11・8)

 

 

 

高市内閣発足。・・・心配です。

 ショッキングなことを聞きました。あるミカン農家。モノラックのレールを3本換えたら、工賃入れて50万円もしたそうです。えっとのけぞりました。ついこの間までは、1本3万円くらいで交換できていました。何という値上がりの仕方でしょうか。この間、三間町の米農家の方と話した時も、機械代が高くて困るということを言っていました。米農家は何しろトラクター・田植え機・コンバインなど一式揃えたら1千万円以上かかるそうですから。この物価高に耐えてやっていける農家、はたしてどのくらいいるものでしょうか。

 大変な時代になりました。この円安インフレ物価高、ますます加速しそうです。

 

 高市早苗氏が首相になりました。

 安倍晋三氏の政策を引き継ぎさらに発展させていく、そうです。アベノミクスは完全に失敗した政策です。この円安インフレをもたらしたのは、間違いなくアベノミクスです。

 高市氏は、所信表明演説で「この内閣が最優先で取り組むことは、国民の皆様が直面している物価高への対応です」と言っておりますが、言及された対策は根本的な解決につながるようなものではないと思います。消費税減税は口が裂けても言おうとしません。物価高の根本原因である円安インフレを改めるつもりも毛頭ないようです。

 わたしが恐れるのは、今対処しなければ、仮に消費税減税やガソリンの暫定税率廃止などがなされたとしても、それさえ無効にしてしまうような円安インフレが発生するかもしれないということです。

 「最近の150円から160円というドル円の水準は、内外のインフレ率変動の影響を調整した実質実効為替レートに置き換えて計算すると、日本円の水準は1970年水準を下回っています。1ドル=360円時代よりも、日本円の力は低下しているのです。」という経済学者もいます(植草一秀氏)。このままでは日本国民の疲弊がさらに深まってしまいます。

 

 高市首相(内閣)の支持率は異常と思えるほど高い。マスコミ各社の調査で若干の違いはあるものの64%~71%を維持しています。驚くのは20~30代の若者の支持が高いということです。保守もリベラルも含めて既成政党に幻滅し続けてきた国民の中で、特に未来を閉ざされていると感じる若い層が、過激で何かをやろうとしている意志だけは強烈な高市氏に魅力を感じているのでしょうか。

 わたしは心配です。「防衛費のGDP比2%を前倒しして今年度中に実施する」とか「日米の黄金時代」を謳って、アメリカへの従属度をさらに高めようとしている高市氏に、そして「台湾有事」に向けてアメリカの兵器を爆買いし防衛力増強に前のめりになっている高市氏に、強い危惧を感じます。その先にあるのは、「自衛隊の軍隊化」「緊急事態条項」「徴兵制」を書き込んだ ❝憲法改正❞ であるように感じられてならないのです。現代版治安維持法といわれる「スパイ防止法」も来年の通常国会には上程されると言われています。

 若者は、本当に戦争に行くのでしょうか。アメリカに代わって日中戦争を戦うのでしょうか。毎日のように報道されるガザやウクライナを見ていて何を感じているのでしょうか。

 

 これからわたしたちを待ち受けているのは、「増税」、であるような気がしてなりません。

 膨張する防衛費を賄うためだけでも、それをするしかないのは明らかです。この上GDP比3.5%を要求されたらどうなるのでしょうか。それだけではありません。アメリカ・トランプ氏の要求はさらに過酷で容赦がありません。5500億ドル(80兆円)の投資、アメリカ米購入拡大(75%増)、他のアメリカ産の農作物などの1兆2000億円購入要求、アラスカの液化天然ガス購入要求・・・等々。

 結果、さまざまなものが削減されます。社会保障費・教育文化関連費・医療介護関連費・地方交付税交付金・・・。

 高市氏の「責任ある積極財政」とは何でしょうか。円安インフレで莫大な収益を上げる経団連傘下の輸出大企業や富裕層へのさらなる所得移転でしょうか。

 インフレ自体がすでに増税だという人もいます。わたしたちの預貯金は額面は同じでもすでに価値は半分くらいになっていて、膨大な赤字(債務)を抱える政府にステルス収奪されているというのです。

 現在の国民負担率は5割に近い。5公5民。これ以上の負担に耐えられる国民がこの国に一体どれくらいいるのでしょうか。

 

 高市氏は「所信表明演説」の「5・食料安全保障」で「農林水産業の振興が重要」と言っていますが、❝食料の自給❞ ということは言いません。小泉氏から代った鈴木新農相は石破内閣が決めたコメ増産方針を早々と撤回してしまいました。

 「9・地方と暮らしを守る」で、「地方の活力は、すなわち日本の活力であることを、身をもって知っております。」と言いますが、本当でしょうか。今の地方の現状を本当に理解しているようにはわたしにはどうしても思えないのです。

 

 石破おろしの大台風で志半ばで退陣を余儀なくされた石破茂氏、昨年の「所信表明演説」で、「楽しい日本」なんて言っていたように思うのですが、なんとゆう極楽トンボだとその時は思いましたが、いまとなってはほのぼのしみじみなつかしくおもいます。

 

 楽しい日本、つくれないこともない、と思います。

 そのためには、徹底した税制改革、が必要です。「財源確保」が必要です。

まず消費税を廃止する。円安インフレ株高政策のおかげで大儲けしている企業と富裕層からしかるべき税を徴収する(「法人税」「所得税」)。従業員の給料を上げず、成長につながる研究開発投資もせず、内部留保ばかりため込む企業のその内部留保金(600兆円もある)に課税する。金融所得課税もしっかりと行う。官僚の天下り先(特殊法人)にメスを入れたらどうでしょう。平和と国民のしあわせを念じる宗教法人にも出していただくことはできないでしょうか。

 支出の見直しも必要です。何よりも「献金」をする企業・団体に公的資金を大量投入する政策を止めることです。「日本財政の現実を見ると、本来の財政機能である所得再分配とはかけ離れた、単なる無駄遣い、利権支出が巨大なウエイトを占めていることがわかります。グローバルキャピタル、巨大資本への利益供与としての財政支出が激増しているのです。私は政府の財政支出は極端にいえば社会保障に限定するべきだと考えます。」(先述の植草一秀氏)。もちろん、特定の企業・団体に中抜きさせる政策もやめなければなりません。

いつ終わるとも知れない、お金ばかり食う無駄と思えるような工事などは止めるべきでしょう。たとえば、辺野古・六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場・リニア新幹線などは早急に結論を出すべきではないでしょうか。またマイナンバーカードなど現時点で不必要なものも廃止すべきでしょう。

 それから、日本には「第二の予算」といわれる郵貯簡保の300兆円もある資金利用の道がありました。郵政民営化アメリカ金融資本が入るようになってこれはどうなっているのかわかりませんが、とにかく日本にはちゃんとしてちゃんと使えば、有り余るお金がさまざまあることは間違いないようです(誰かその実態を明らかにしていただけませんかね)。

 防衛費は身の丈に合った1%くらいが適当でしょう。集団的自衛権などと言わずに専守防衛に徹しましょう。アメリカから自立し、対等の条約を結び直しましょう。どこも人手不足で自衛隊員も集まらないのですから(無理に集めたら他の産業の足を引っ張ることになるでしょう)、これは妥当な政策と言えるでしょう。これをやれば大幅にお金が浮きます。

 「一人当たり名目GDP」は下がり続けていますが(2000年に2位だったものが2024年には39位)、国のGDPはまだ世界4位。日本まだまだ豊かです。国のリーダー達さえ本気になれば、国民からむしり取らなくてもいくらでも財源は捻出できるでしょう。

 

 さて、これで、国民をしあわせにするためのお金ができました。「楽しい日本」、つくりましょう。若者にもどんどんお金をあげてください。使い道、みんなで知恵を出し合いましょう。

その使い道の一つの「地方自治」「地方分権」を推し進める方法として、地方交付金の配り方なども支配の道具的にやるのでなく、基準を設けて、もっと増額して、年度当初にさっさと配ってしまって置いたらどんなもんでしょう。地方政府は随分と楽になるように思いますが。どうして地方はそんな政策改変を求めないのでしょうね。

 

 どうです!?こんな風に考えて行ったら、この日本、少しは楽しく面白く、なる道が開けてくると思いませんか。

 「国会議員の定数削減」などは愚かなことだと思います。○○チルドレンなどではなく、優秀で国民のことを心から思うあったかい政治家に満ち満ちた国会をつくることこそ大事です。

 最近ちょっと気になる本を読みました。養老孟司先生が4人の識者と「巨大地震で日本がどうなるか」をテーマに対談した『日本が心配』という本です(PHP新書)。

 その中の一人、京都大学名誉教授で地球科学者の尾池和夫さんがこんなことを言っています。「南海トラフの大地震というのは、言うなれば2038年が満期の積立預金です」。

 えっ、あと13年後!? 東日本大地震能登地震などを予想した尾池さん。傾聴するに値する言葉だと思います。それまでの13年間に、この日本を作り変えておいた方がいいんじゃないかと思います。

 

※想定される南海トラフ地震の様子・概要(恐ろしさ・凄まじさ)は、このブログの〈2020・4・1「俵津は滅びない」〉を見て下さい。神戸大学名誉教授・地震学者の石橋克彦さんが描いた世界を載せております。尾池さんが言われる「満期の積立預金」の意味は、マグニチュード9クラスの最大級の地震になるということだと思います。石橋さんはその世界を描いています。

 

 村上誠一郎総務大臣が退任あいさつで、涙ぐみながら「民主主義が危ない」と言ったそうです。どういう文脈で言われたのかちょっと分からないのですが、言葉自体には同感です。村上さんや石破さん、こうした自民党の中での良識派といわれる人たちがこれから生きにくくなるでしょうね。

もちろん、それ以上に、わたしたちも・・・。

(2025・11・4)

【寄稿】長崎東海日誌について ⑲

明治43年日誌

 

【船のこと】

(三島丸と靱丸、硯海丸)

当年も前年に引き続き三島丸と靭丸が俵津近海を航海しています。東海は三島丸のほうをよく利用しており、当年日誌では11月終わりまで頻繁に記述が出てきます。靭丸については、3月24日付の記述(皆江出張に靭丸を利用)を最後に当年日誌には出てきませんが、これは休航したのではなく、東海が利用しなかったためかもしれません(翌明治44年の日誌にも記述が見られるため)。12月に入ると三島丸に入れ代わるように硯海丸(「宇和島運輸会社引受」の汽船、東海日誌について⑰を参照)の記述が出てきます。三島丸の代船として航海していた可能性があります。

 

(「発動機船海進丸」)

「石油発動機船」や「発動機船海進丸」という言葉が当年日誌に時々出てきます。

5月14日付でこの日「狩浜斉藤某ノ新造セシ石油発動船」が俵津へ入港した、という記述が出てきます。同月30日付では、この日から「石油発動機船」が宇和島・高山・狩浜・俵津間の定期航海を始めた、と記しています。7月23日には和霊祭に「発動機船海進丸」で出発し、翌24日は宇和島から「俵津仕立ノ和船ニ乗リ込ミ、海進丸ニ曳カ」せて俵津へ帰ったとの記述があります。8月17付及び同月26日付でも「海進丸」が航行していることを確認できる記述があります。12月8日付では「本日ヨリ発動機船海進丸俵津碇泊ト変更シ、自邸ニ下ニアリ、午前六時過ギヨリ船笛ヲ鳴シ朝起頗ル便利ニ感ゼリ」と、この日から海進丸の碇泊場所が俵津へ変更されたことが記されています。

まとめてみますと、「海進丸」は狩浜の「斎藤某」が新造した「石油発動機船」で、5月30日に宇和島~高山~狩浜~俵津間の航海を始め、12月8日には俵津(しかも東海邸の下)へと碇泊場所を変更した(それまでの碇泊場所は不明)、ということがわかります。

この海進丸については『明浜町誌』に若干の記載がありますので、そちらもご参照ください。

 

【郡参事会員辞任と村議辞職】

この年も東海は引き続き郡議、村議ですが、2月21日に「当日郡参事会員ヲ辞表ス」と郡参事会員を辞任した記述があります。郡議については継続して務めています。

村議については、1月10,11日の村会を欠席し、2月7日の臨時村会も欠席しています。3月23日の村会も欠席。この日付で「議員ノ辞表ヲ提出ノ考ナレバ、自後出席ハセザル考ナリ」と記しています。1ヶ月後の4月21日の村会には出席したようですが、「自分ハ感ズル所アリ本日辞表提出セリ」と記しており、この日東海は村会議員を辞職しています。詳しい理由は不明です。これ以降当年日誌では村会に関する記述が見られません。

実は、この年の2月23日に娘の愛香が21歳の若さで死去しています(病気のため前年春に東京(日本女子大在学)から帰郷し自宅療養中)。日誌で明記はされていないものの、郡参事会員の辞任、村議の辞職は娘の死去が影響したことも考えられます。

 

【自然のこと】

ハレー彗星

この年ハレー彗星が地球へ接近しました。日誌にも関係する記述が見られます。

5月17日付。「当時彗星顕レ世間種々ノ風説アリ、迷信家ハ騒ギ立ル模様ナリ、来ル十九日彗星(ハーレー彗星)ガ地球面ニ接シ衝突スルモ難計トノ新聞アリシ故ナルベシ、当夜三時頃晴天ニ付彗星見物ニ出懸ル人多シ、兎苗及病院職員等星見ニ起キタリ(午前三時)」

5月19日付。「本日ハハーレー彗星ガ地球ニ接近スルト云日ニ〓(して)、俗民ハ一般憂慮シ、休業セシ者多々アルガ如シ、自分モ午前三時頃起床眺望セシニ、星ハ見ヘシモ尾ハ充分ニ認メ兼タリ、本日ハ患者大ニ減少セリ、是迷信家ノ彗星接近説アルニ因スル〓(こと)ナルベシ」

17日付では、世間にいろいろな風説が流れて迷信家が騒ぎ立てたこと、19日に地球に衝突するかもしれないとの新聞記事が出たこと、それでも彗星見物に出かけた人が多かったことなどが記されています。19日付では、ハレー彗星の最接近日のため休業した人が多くあったこと、東和病院も患者が大いに減少したことなどが書かれています。この日は「星は見えたが尾は十分には見えなかった」と東海は記しています。

その後5月22日付で「当夜晴天ニ付彗星実見セリ」、同月29日付では「当夜彗星明ニ顕ル」と記しています。最接近日から少し経って、東海はハレー彗星をはっきりと目視できたようです。

 

(海水浴)

7月9日付で「極早朝離床、萩森車夫ヲ随ヘ船ニテ楠ノ浦ニ至リ海水浴ヲナス、是レ自身養生ノ為也、神心頗ル爽快ナリ」という記述が出てきます。これが東海日誌における、東海自身の海水浴に関する初出の記述となります。ごく早朝に「楠ノ浦」で「自身養生」のために海水浴を実施し、心身とても爽快だ!と記しています。その後も17日まで毎日海水浴を実施しています。早朝に家族などを連れて「楠ノ浦」で海水浴、というのがお決まりのようです。ちなみに、7月16日には「卯ノ町校生徒」130~140名が海水浴のために俵津にやって来た記述もあります。

 

(気温)

当年日誌には、時々ですが気温の記述が見られ、計27件を確認できます。

1月31日付で「室内ノ温度離床時摂氏四度、障子外即軒下ハ零下一度ヲ示ス、手水鉢氷リ、実ニ自分来村以来ノ寒気ト感ゼリ」(室内4℃、障子の外軒下-1℃)との記述があり、これが初出となります。翌2月1日には「障子外零度」(0℃)、同月2日には「障子外零下一度ヲ示シ、降雪尚止ラズ、四方白雪銀世界ヲナス」(障子の外-1℃)と、この頃俵津に寒気が入ったようです。

春の気温の記述はありません。

夏。7月10日付で「暑気八十二度ヲ示ス」(27.77℃)との記述があります。これは摂氏ではなく華氏での表記です。この頃東海は寒暖計を入手したのか、この日以降気温を書き付ける頻度が増しています。ちなみに7月10日は東海が海水浴(先述)を開始した翌日にあたります。8月2日、3日、15日、16日は「暑気甚シク」や「大暑」などと書いており、とても暑かったらしく、いずれの日も「九十度」(32.22℃)と記しています。8月22日には気温の記述はないものの「当夜蒸熱甚シク、本年夜暑ノ第一位」と、暑さのピークを迎えているようです。

9月に入っても暑さは続いたらしく、9月1日付では東海宅ではないものの「旧駐在所」の気温が記されており、「九十二度ニ及ブ」(33.33℃)と書いています。9月半ば以降は時々の残暑はあるものの気温は落ち着いてきているようです(おおむね20℃台)。

11月に入ると、11月17日付で「夜来強風ニ〓(して)寒気頓ニ増加シ、室内五十度ニ下降シ、暖気俄然寒気ニ変ズルヲ以感甚シ」(室内10℃)との記述があり、翌18日にも「寒気依然五十度ナリ」(10℃)と記されています。翌日の19日には「山奥四方山頂雪ヲ戴キタリ」と山奥方面の山々の頂が雪化粧したと書かれています。

12月に入るといよいよ冬本番となり、12月3日付で「シブチ日和ナリ、寒強ク四十六度ヲ示ス」(7.77℃)、12月10日付では「寒気ニ〓(して)室内四十八度ニ下降ス、早朝霰降ル」(室内8.88℃)と早朝に霰が降ったことも記されています。12月11日は「寒気ニ〓(して)雪ヨリ雨トナリ、宇和地方ハ積雪甚シトナリ、華氏三十八度ニ下降ス」(3.33℃)とこの冬一番の冷え込みとなり、宇和は積雪し、俵津でも初雪が舞ったようです。

今の気温と比べていかがでしょうか?

 

(漁と魚)

東海日誌には漁や魚に関する記述も多く見られます。

2月15日付で「白魚初漁」の記述があり東海も買い求めています。3月11日付では「当時烏賊釣盛」と記しており、13日付では病院職員などが実際に烏賊釣りに行く記述があります(東海は往診のため行けず)。4月27日付で「鯔漁ヲ実見シ快呼セリ」という記述。5月12日付で「エソ・鯔等」を買い求めて調理(魚飯)した記述。5月14日には「松魚」を買って調理し、会食しています。6月22日付では、田之浜で「藻ボシ」という一貫(3.75kg)余りの魚を買って帰り調理しましたが、「世評ノ如ク美味ナキ魚ナリシ、再ヒ求メザルベシ」と不満を記しています。6月24日には狩浜で「小鮪」がたくさん獲れたらしく、東海も買い求めています。7月12日付では「新田谷川ノ川狩ニ行ク(略)、獲ル所ナク」と新田の谷川で川狩りをしたものの獲物が

なかったと記しています。同月19日にも「新田奥ノ谷川」に行って川狩りをしており、この時は「僅ニ小鮎六疋、其他川鰕類少々ヲ獲タリ、月夜ナルヲ以得難シト云ヘリ」と、小鮎6匹とそのほか川エビなど少々を獲っていますが、「月夜のため漁が難しいとのこと」と記しています。8月に入ると「松魚」「小松魚」が近海で獲れ始めたようで、6日付及び15日付で「小松魚」が「大漁」と記しています。9月10日付では「ホータレ漁盛」と記されています。9月24日には東海は「イトヨリ釣」に出かけています。11月23日付では「当時本宅西側網代ニテ毎夕ジヤミノ漁アリ、曳毎ニ二銭・五銭ヲ求ム、二銭ヲ以テ買フモ五銭ヨリ多キ〓(こと)アルヲ以、毎回二銭ト定メ下婢ダイヲ〓(して)買ハシメ一笑ニ附セリ」と記されています。この時は「ジャミ」が獲れ過ぎたのでしょうか、値付けが適当になってしまっていることを東海はおもしろがっています。

 

【祭りなど】

和霊神社

7月23日付で「明廿四日ハ和霊祭ニ〓(して)、本年ヨリ新暦ニ改メ執行スル由、本日ハ宵祭ナリ」という記述が出てきます。和霊祭はこの年から新暦で実施されたようで、この日は「宵祭」にあたり、東海は「俄然宇和島行ヲ企テ」家族らとともに午後2時の「発動機船海進丸」で宇和島へ出発します。宇和島では土佐屋に投宿。同所は「酷炎難堪」(ひどく暑くて耐え難く)、日没まで待ってから「追手通」を散策し「丸ノ内和霊社」に参詣しています。その後さらに「八幡村和霊社」へも参詣していますが、その時のようすを「参詣人山ノ如シ」と記しています。

翌24日は、昼食後に土佐屋を出て帰途に就きます。途中和霊神社(おそらく丸ノ内和霊神社)付近を散歩し、「自転車曲乗興行」を見物しています。和霊祭に合わせたイベントであったものと思われます。午後5時、樺崎出港の海進丸が曳航する「俵津仕立ノ和船」に乗り込み、午後7時に俵津に帰宅しています。

11月5日付では、「宇和島町ハ和霊神社通夜堂、石垣落成及堀大修工並ニ日韓合邦ノ三大祝事挙行ニ〓(して)、天長節ヲ初日ニ三日間一大祝典ヲ挙クル由新聞紙ニ伝ヘ」(宇和島町では11月3日からの3日間、和霊神社丸ノ内)の通夜堂落成、石垣落成及び堀大修工、日韓併合も合わせた「三大祝事」の「一大祝典」を挙行する、という新聞記事が出た)との記述があります。この新聞を見た東海は「其盛況ヲ見ントテ」、この日実際に宇和島へ見に行きます。しかし「新聞紙ニ伝フル如キ盛況ニ非ズ聊失望セリ」と、実際はあまり盛況ではなかったようで、東海は不満を記しています。

 

(俵津村神祭)

10月30日付で「本年ヨリ神祭ヲ改メ来ル十一月二日トセシ故、村内一般神祭前ニ付多忙ナルガ如シ」との記述があります。俵津村はこの年に神祭日を旧暦11月15日から新暦11月2日へと変更したようです(その後も神祭日はたびたび変更されていますが…)。11月2日の「改正セシ村ノ神祭日」当日は残念ながら雨となります。東海は病院には出勤せず自宅で来客の対応をしますが、雨のため来客が少なく「残念ニ感ジタリ」と記しています。また、「丑鬼、鹿ノ子踊等」は回って来ましたが、「神輿」は雨のため中止となったようです。例年は賑やかな夜も「閑静ナリ」と記しています。

 

(吉田祭、狩江祭)

10月15日付で「本日ハ吉田祭、狩江祭ノ為俵津村民ハ半数以上外出セリ、戸ヲ閉チタル家沢山ナリ」との記述があります。この日は吉田祭、狩江祭のため俵津の半数以上の住民はいずれかの祭りへと出かけていたようです。東海は案内を受けていた狩江祭へと出かけ、「例ニ拠リ屋台船ノ狂言、丑鬼、神輿等ノ神役挙行中ニテ、仝村民ハ又大体家出見物スル者ノ如シ」とそのようすを記しています。

 

(亥の子)

11月6日付で「本日ハ亥ノ子ニテ例ニ拠リ午后ヨリ子供連頬被リ物ニテ亥ノ子搗ニ狂フ、門前ノ土穴製造ニハ閉口セリ」との記述があります。門前の「土穴製造」に閉口したとの記述から、亥の子石によるものだとわかります。同月30日付でも「当日ハ乙亥トテ例ノ亥ノ子搗雨降止ノ間ニ来ル」と、雨の止み間に亥の子搗きが来たと書いています。さらに加えて「此旧幣(弊)ハ廃シタキ者ナリ」とも記していますので、東海は亥の子についてはあまりよく思っていなかったようです。理由ははっきりとは書かれていませんが、「門前ノ土穴製造」が原因かもしれません。

 

【事件(粥と糊)】

10月27日のできごとです。この頃東海宅は改築工事中で、大工が頻繁に出入りして作業をしていたようです。東海は数日来体調を崩していましたが、この日も病院に出勤して診療しています。昼になって昼食をとろうと自宅に帰ると・・・「下女ダイ食用粥ト糊ト誤リ膳ニ上セシ故、一口ヲ食シ大ニ其不注意ヲ叱責ス、両三日胃症ノ為朝飯ハ粥ヲ命シアリシヲ以間違シ〓(こと)ナリ」。下女が粥と糊とを間違えて東海に出してしまい(しかも朝食と昼食まで間違えています)、律義にも東海はそれを口にしてから「大いに不注意を叱責した」と書いています。この糊はおそらく障子糊と思われます。見た目がとても似ているので間違えてしまったのでしょう。「胃症」を患っていた上に糊まで口にしてしまった気の毒な東海の姿が目に浮かびます。ちなみに、東海はその後体調には特に変化が出ていないようです。

 

当年日誌にはほかにも、医療関係として、産婆看護婦養成所関係の記述、三島病院・蔵貫医院に関する記述、学校でのムササビ解剖と生徒への講話の記述などがあり、時事的なものとして、韓国併合に関する記述などもあります。

(本文中敬称略)

 

                        (2025・10・31)

morinoshimafukurouから

①新発見です!「長崎新田」と刻まれた石柱(石碑)が見つかりました。宇都宮胡瓜さんが知らせてくれました。行ってみると1メートルくらいのものが横たわっていました。いつだれが作ったものか、実際に建てられていた場所はどこなのか、などはわかりません。長崎東海研究会の山下会長に連絡し、今調べてもらっています。わかりましたらお知らせします。

②長崎東海研究会員であり、松山の近代史文庫の会長でもあります冨長泰行さんが、長崎東海日誌の要約本をこの7月自費出版されました。『研究ノート 明浜の「赤ひげ先生」奮闘記  長崎東海日誌各年の要約(明治34年昭和3年)』。

 頂いたご本の一部を、俵津地域づくり活動センター図書室へ、山下会長が寄贈しました。その経緯は「センターだより」9月号に載っていますのでご覧ください。右リンク欄より入って見て下さい。みなさま是非、センターへ足を運んで手に取ってご覧いただければ嬉しく思います。

 それにしても、冨長さんといい、このブログに「長崎東海日誌について」を寄稿し続けて下さっている方といい、俵津のわたしたちが範とするに足る偉大な「長崎東海」さんについて、このように熱くご研究をささげていただく方のいることに、こころから感謝申し上げる次第です。本当にありがたいことだと思います。

愛媛新聞に載った!―今年の「じじばばー」について

 「じじばばー」の大会が終わって一週間後(10月6日)、愛媛新聞が取り上げてくれました。9面の「いきいき てくてく in 西予」のコーナー、しかも半端じゃない大きな記事。驚きました。わたしたちにとって記念すべき記事なので ここに写しておきます。

地域活性「じじばば」奮起

  俵津老人クラブ 22年から「演芸会」企画運営

 芸術の秋、文化の秋に西予市明浜町俵津地区の芸達者が集う「じじばばスーパー演芸会」。2022年に産声を上げ、地区で定着しつつある行事には、主催する俵津老人クラブ地域活性化への思いが詰まっている。

芝居・カラオケ・踊り・・・老若男女 交流の場に

 9月28日午後。4回目の「じじばば」が開かれた俵津地域づくり活動センター(同市明浜町俵津)に約150人が訪れた。そのうち出演者は50人ほど。カラオケや踊り、芝居、腹話術など多彩な出し物でにぎわった。

 じじばば劇団が演じた侠客・国定忠治の「名月赤城山」や明浜地域の若手ミカン農家が立ち上げた会社「笑丸(にこまる)」のスペシャルショーでは、笑い声が響いた。カラオケは着物やドレス姿で熱唱する人も。最後は盆踊りでなじみの「炭坑節」を全員で踊った。

◇    ◇

 俵津地区は8月末現在で人口901人、高齢化率51・4%。人口減少と少子化に歯止めがかからない。

 じじばばスーパー演芸会の企画とネーミングは、宇都宮氏康さん(77)が19年に提案した。「人口減少が進み、高齢化率も高い中、地域活性化にはじじばば世代の奮起が不可欠だ」。当時の老人クラブ会長、永山福重さん(81)と「年寄りが企画・運営し、徐々に地域を巻き込んでいこう」との思いを共有していた。

 70歳以上の有志でつくる老人クラブで20年のスタートを目指したが、新型コロナウイルスの影響で吹き飛んだ。ようやく開催できた22年10月には、約170人が詰めかけた。会員が楽しめ、地区に波及できるよう取り組み、24年に地区全体の行事とした。今回もまちづくり組織「俵津スマイル」や俵津婦人会、笑丸などの協力を得た。

 「予算面も運営面も大変だが、いろんな人の協力があって何とか元気に継続できている」と老人クラブ会長の市川以世男さん(77)。副会長の伊勢富雄さん(77)も「老若男女が集い、交流できる場として育てていく」としている。

                            (門田龍二

 この記事には、大きな写真が二つ添えられています。「国定忠治の「名月赤城山」を演じ、観客を魅了したじじばば劇団」の説明付きで、まさに名場面中の名場面「俺にゃあ生涯おめえという強ぇ味方があったのだ」のあのシーンと、「地区の若手ミカン農家もスペシャルショーで盛り上げた」と笑丸6人が肩組んで「世界に一つだけの花」を歌っているシーン。二つとも見事なカットです。

 この記事にはすばらしい付録がありました。新聞1面右下に、この9面の本記事を紹介する「じじばば演芸会」躍動 9面の文句が踊る、緑の太線で片面が囲まれた目立つ小記事があり、そこにはフラガールを目指す佐藤歌さんの踊る姿とおばあちゃんの歌う姿をとらえた写真も添えられていたのです、なんと。記事はこうです。

 高齢化率50%を超える西予市明浜町俵津地区で「じじばば世代」が元気だ。「地域活性化にはわれわれの奮起が不可欠」と、コロナ禍が落ち着いた2022年に立ち上げた「じじばばスーパー演芸会」は、地区全体を巻き込んだ一大行事に成長しつつある。

 これらを書いてくださった記者さん、会の始まる前から来て最後まで見ていただきました。ありがたいことです。

 「じじばばスーパー演芸会」、素敵なユニークなタイトルですね、と言ってくださった記者さんに「スーパー」の意味を問われたわたし。一応こう答えておきました。

 二つの意味があります。一つは、この地域の中で、青・壮・老いちばん人口が多い老のわたしたちが、自らの新しい老後の過ごし方をつくりながら・楽しみながら、壮や青、それに子供たちまでに働きかけて、いっしょにやろうよ!楽しい俵津をつくろうよ!とわたしたちの稼働領域を広げること、老いの新しい意味世界を解発することです。これまでの「老人」や「老人クラブ」を超えたい、ということです。

 二つ目は、同じことですが、老人一人一人が、体やこころの衰えをかかえながら、何とか人生を生き抜いて行く、少しでも前向きに生きていくために、「今」を超えて行きたい。大したことはできなくとも、あるかもしれない「スーパー」な自分と向き合える世界をつくりたい。そんなささやかな願望の世界を、ちょっとおどけて「スーパー」の言葉で表してみたのです。

 今年の「じじばばー」、とても充実感がありました。

 出てもらった出演者全員に「やる気まんまん」を感じました。すばらしいパフォーマンスをありがとう!

 婦人会の皆さん。「踊り」二つ、ありがとう。老人クラブがやる予定だったオープニングの「芸者ワルツ」、出来なくなって、「オープニングどうしようか?」と思案していた時に、婦人会の「ハワイアン」、ほんとうにタイムリーで回していただいて、最初にふさわしく楽しく踊っていただいてとても感謝しています。

 笑丸のみなさん。ありがとう。若い人たちのあふれでるパワーに今年も圧倒されました。わたしたち年寄り、元気をもらいました。

 センターの職員のみなさま。ご協力、ありがとう。スマイルのご援助もほんとうに助かりました。今後ともよろしくお願いいたします。

 第4回にして、こんなに大きな会に育てていただいたみなさまに本当に感謝です。

 その気持ちの中から、わたしの胸に、あたらしい「夢」が生まれました。

 春に、もう一つ「演芸会」があったら!と思ったのです。「じじばば」じゃない若い人たちがやる「演芸会」。婦人会・笑丸・青年会・ゆめさく・・・そういう若い人たちが共同でつくる春の演芸会。3月でも4月でも5月でもいい。面白いタイトル付けてやっていただけたら・・・。彼ら・彼女らを見ていると、とてもあのくらいの出番では足りないだろうと思ったのです。歌も芝居もその他のパフォーマンスももっともっとやりたいだろうと思ったのです。はち切れそうなエネルギーを感じたのです。

 秋と春との二つの演芸会がある俵津。これに「文楽」が俵津にはある。「演芸の町・俵津」が大きなコンセプトで立ち上がる。

 みなさん、一度考えてみていただけませんか!

 本番があった翌日・9月29日。老人クラブ役員の「打ち上げ会」を、同じホールで開きました。芝居に出てくれた笑丸の二人とセンターの四人も招きました。

 高月信夫さんが、通信カラオケの機器が置いてある間に、カラオケしながら楽しく打ち上げをやろう!と提案してくれたのでした。みんな歌ってくれるかな?と当初心配していたのですが、取り越し苦労でした!これも大盛会。

 適切な比喩を思い浮かべることができませんが、「鉄は熱いうちに打て」「余勢を駆る」というようなことでしょうか。前日の興奮が熱く残っているみんなの話もカラオケもサイコーでした!

 わたしは、出演者全員の「打ち上げ会」を一度やってみたいな、と思っているのですが、やれるかもしれない!という感触をつかんだ晩でした。

 いいですね!楽しい飲み会!

                        (2025・10・8)

 

 

 

【寄稿】長崎東海日誌について  ⑱

明治42年日誌 ~郡内地理視察、道路期成同盟会、農蚕学校開校式、そのほか~

前回に続き明治42年日誌からです。当年も東海は東宇和郡会議員(参事会員でもあり)を務めています。

 

【郡内地理視察】

6月14日。郡参事会が開かれ東海も出席します。郡参事会では以前から「郡内各村地理視察」の提案があったようで、この日視察が正式に決まります。メンバーは、美村政太郎郡書記(深田郡長代理)、上甲茂喜郡議(多田村)、写真師毛利克己(成妙村、東海が旅費を負担)、東海の4名で、出発は翌日の15日と決まりました。毛利写真師の同行は「各所景色、地理、風俗等ノ撮影」のためと記しています。

6月15日。午前7時20分に馬車で卯之町を出発し、野村清家旅館に11時頃到着します。昼食後徒歩で野村を出発し、阿下、釜川を経由して横林村坂石で休憩。その後時々で撮影もしながら、奈良野、「ミ子ガ峠」(峰峠)を通過して夕方惣川に到着。菊池平三郎方(旅館)に投宿します。

6月16日。午前8時に惣川を出発して大野ヶ原を目指します。惣川村役場からは脇田恒行が案内者として同行しています。農繁期のため馬の手配がつかず、この日も徒歩です。この途中で一行は羅漢穴を見学しています。洞内では蝋燭を灯しての見学で、見学後は洞穴の出口で昼食をとり、その様子を撮影しています。羅漢穴を後にして午後4時頃大野ヶ原に到着。「バラック其他各所」を見学し、すぐに帰途に就きます。この日は途中の「欅台」で宿泊。この辺りは標高が高いので「冷気ニ〓(して)秋ノ如ク、蚊来ラズ、実ニ山紫水明ノ美ヲ収ム」と記しています。

6月17日。午前7時出発。この際の記述に「大野原ヨリ本郡ニ開通ス可キ惣川希望線並遊子川希望線等ノ道路予定線ノ山脉ヲ一見ス」とあります。この地理視察は道路予定線の視察も兼ねていたようです。伊予の地を経由して「雨包ナル峠」に着き、休憩。この際にも「大野原ヨリノ予側線ヲ視察ス」と記しています。野井川に入り野井川小学校で休憩し「酒肴ノ饗応」を受けます。野井川はちょうど農繁期で「子ヲ負出席スル生徒沢山ナリト云フ」と記しています。休憩後は六地蔵越えで窪野に下って土居町に入っています。当初は土居町泊の予定でしたが、土居まで出迎えに来ていた芝鉄次(高川村長)の要請で急遽高川村まで行くこととなり、夕方には高川に到着。この日は東光寺を宿泊所とし、同寺では村長や住僧冨士居潜龍ら

から待遇を受けます。そのようすを「待遇甚タ厚ク、且又準備整頓セリ」と記しています。

6月18日。この日は川津南から「坂ヲ登リ」「高川村希望線」を見ています。ここでも道路の視察です。同所は「日向(谷)・井谷等一望」の場所で、ここで昼食をとっています。その後は東光寺に戻り再び一泊しています。

6月19日。午前8時に東光寺を出発。土居村古市を進んで下相で休憩し、その後杉の瀬を渡って魚成入りしてここでも休憩をとり、その後「開鑿新道」に出て桜峠を進みます。この際「空腹ニ堪ヘス胡瓜ヲ求メ一本食尽シ」てようやく飢えを凌いだ、ということが記されています。この日は野村清家旅館で一泊して、翌20日に俵津へ帰宅しました。

この5日間の地理視察は、大野ヶ原バラックなどを視察していること、また各村で「希望線」(=各村が希望するルート)の視察を行っていることなどから、道路予定線の視察を兼ねていたようです(長崎東海日誌について⑮を参照のこと)。

本稿では概要の紹介に留めていますが、日誌ではさらに詳細に記述がなされており、明治42(1909)年当時の郡内各村の様子がよくわかるとても重要な記述となっています。

 

【道路期成同盟会(野村)】

7月11日。卯之町の商業銀行で「有志会」が開かれます。この会で「来ル廿五日野村ニ於テ道路期成同盟会ヲ開ク〓(こと)ニ決ス」と記されています。これを受けて俵津村では24日に村役場で「区長諸氏ト明日野村ニ開催ノ道路期成同盟会出席員ニ付協議」をし、俵津からは東海らが出席することが決まります。

7月25日。早朝に俵津を出発した東海は、卯之町からは馬車に乗り換えて野村へと向かいます。昼頃野村に到着し、午後1時から会場「清家楼」で道路期成同盟会が開会します。出席者は各村代表の30~40名程度。俵津からは大野村長と東海が出席しています。この日「重要事項」を協議しましたが議了には至らず、引き続きの協議は翌日へ持ち越しとなりひとまず解散します。

この日野村では渡邊修(衆議院議員、現鬼北町出身)の「衆議院ノ経過報告」会が三島神社で開かれ、同盟会閉会後に東海はこれに参加しています。報告会の後は「薄暮懇親会トナリ、仝社内ニ開キ盛会ナリシ」とそのようすを記しています。この日東海は大塚屋で宿泊しています。

翌26日も前日に引き続き「同盟会」が開かれます。「議事大ニ進行シ、会長以下役員ノ撰挙アリ、会長緒方陸郎、副会長品川佳成、調査委員五名、緒方、品川、兵頭利、別宮周三郎及自分ノ五名当撰セリ、評議員ハ各村長トス、本日ハ重要件モ議了シ」と、会長、副会長、調査委員(東海も当選)が選ばれたことと、重要議題が議了したことが書かれています。この日も東海は野村で一泊し、翌27日昼前に俵津に帰宅しています。

さて、以上はとても重要な記述なのですが、日誌を読む限りではどういった内容のことが協議されたのかがわかりません。しかし、「道路期成同盟会」が野村で開かれた、という事実は押さえておきたいポイントだと考えます。

 

当年のこれ以外の道路関係の記述はあまり多くなく散発的なものに留まっています。

8月3日付で印象深い記述があります。この日東海は所用で卯之町に行き、その帰りの記述です。「吉田帰リノ馬車ニテ法華津峠ニ至リシニ薄暮トナル、是ヨリ下車、横断シテノブク峠ニ至ル、宵暗殊ニ少雨アリ大ニ困難セリ、此変行ヲナセモ将来俵津線ニ対スル視察ヲ兼子タルヲ以テナリ、徐々下阪、帰宅セシハ九時頃ナリシ」。夕暮れ後の暗い中、しかも雨が降る中を、東海は苦労しながらも歩いて野福峠を下ります。「こんな「変行」(ここでは「変わったこと」のようなニュアンスで書いているようです)をするのも将来の俵津線のための視察を兼ねているからだ」。東海の思いが伝わってきませんか?

 

【農蚕学校開校式】

当年の日誌には「農蚕学校」に関する記述が出てきます。宇和高校のHPには「明治41.3.2郡立農蚕学校設置並びに学則、文部大臣認可 / 〃5.1郡立農蚕学校開校(仮校舎、蚕病予防事務所) / 6月30日新校舎に移転」という情報が載っています(愛媛県立宇和高等学校HP)。当年(明治42年)は、農蚕学校開校の翌年にあたります。関係する記述を拾ってみます。

2月1日付で、郡会議員一同で農蚕学校を視察し、その夜「学校連」からの招待により三ツ引楼で「大ニ饗応」を受けた記述があります。これが東海日誌における「農蚕学校」という言葉の初出です。5月22日にも郡参事会員一同で「農蚕学校舎及育蚕視察」をした記述があります。

7月1日付では、この日農蚕学校の生徒が俵津に「船遊」に来た記述があります。農蚕学校「生徒」に関する記述の初出です。

8月3日、東海は所用で卯之町に行ったついでに「学校経費ノ件ニ付取調」で農蚕学校に行っています。郡参事会としての行動のようです。9月22日にも兵頭寅三郎(東海と同じ郡参事会員)と「農蚕学校建築ノ模様」を視察しています。

10月8日。この日の郡参事会で「農蚕学校開校式ニ就キ協議」を行っています。その6日後の10月14日付では、所用で郡役所に立ち寄り郡長に面会すると「農蚕校開校式本月廿四日ト確定セシ由、且其当日招待員トナシ居レリ、依テ前日ヨリ出卯アリタキ云々談合セリ」(農蚕学校の開会式が10月24日に確定した。東海も「招待員」と決まったので前日から卯之町に詰めてもらいたい。)と郡長から告げられたと書いています。

そして10月24日。この日農蚕学校の開校式が開かれます。東海は朝7時にいったん郡役所に立ち寄り、その後農蚕学校に向かいます。「自分ハ本日ノ招待係トナリ居ルヲ以準備上ノ手伝ヲナセリ」と書いていますので、先述の「招待員」は「招待係」のことを言っているようです。東海は式の準備、手伝いをしたあと礼服に着替え、10時からの開校式に参列します。開校式の主な来賓は、知事代理竹井事務官(竹井貞太郎)、安井(家)県視学(安家重政)、篠田南宇和郡長(篠田藤信)、奥山少将(奥山義章)、清家北宇和郡視学(清家吉次郎)、そのほか東宇和郡会議員、各町村長、各高等校長、警察署長など100名余り。開校式は12時に閉会し、閉会後東海は開校記念として開かれていた「生徒運動会」を見物しています。その後式場

では宴会があり、東海も列席しています。また、開校式に合わせて「運動会、相撲、煙火等ノ余興」が催されていたようで、当日の人出は「殆ント一万近キ人頭ナラン」と書いています。なんと、一万人です。東海は「頗ル盛会ナリシ」と記しています。夕方からは町中の芸妓が総出で「手踊等」の催しをしたとも書いています。農蚕学校の開校に沸く卯之町のようすがよくわかります。

農蚕学校は明治41年5月に開校し同年6月30日に新校舎に移転したとのことですので、1年経ってからの開校式となったようです。

 

【そのほかの特徴的な記述】

(牛の往診)

東海は外科で著名な医者とされていますが、4月16日付でおもしろい記述があります。この日皆江の某から「飼牛難産」のため往診の依頼があります。「牛」です。獣医でも分娩させることができないのでどうにか…との強い要望で、東海は「不本意ナガラ情ニ於テ辞シ難ク」引き受けています。船で高山へ出て、そこからは徒歩で峠を越えて夜9時過ぎに皆江に到着します。「産牛虚脱シアレバ、酒ヲ與ヘ蒲団ヲ被ヒ体温ノ至ルヲ待チ、鉤ヲ用ヒ一脚ヲ出サシメ、頭足ヲ搏リ抽出ス」と無事に牛の分娩を終わらせましたが、時間は夜も11時を過ぎた頃でした。

(「気ヲ鼓」す東海)(長崎東海日誌について④も参照)

この年の11月9日~12月4日のほぼ一か月間、東海は高知に残したままになっている家政上の問題を整理するため窪川へと帰っています。日誌では「負債始末」「家政上ノ整理」という言葉で表現されています。期間中は関係者との協議で忙しく過ごしていますが、そのうちの11月15日夜の記述が印象的です。「回顧スレバ、明治三十五年俵津ニ転業シ、翌廿(丗)六年帰宅、約数十日ニ〓(して)俵津ニ至リ、其后帰村セサル〓(こと)七年間、在村中築営セシ家屋等ハ債鬼ニ取去ラレ一変耕畑ト化シ、暗夜四方ヲ眺メ、今尚逆境中ニ彷徨セル不幸ヲ追懐シ、思ハズ落涙数行、斯クテハナラジト気ヲ皷シ」。かつて住んでいた家屋は取り立てのために撤去されて畑となり、その状況を暗夜眺めて「今なお逆境にさまよう(自身の)不幸を思い返

し、思わず落涙したが、これではいかんと気を鼓舞して…」と書いています。心に残る情景です。

 

当年日誌にはほかにも、前年末から開始した「産婆学講習」(本稿では未紹介)を引き続き開講している記述や、5月ごろからは学校児童に対してトラホーム治療を開始した記述、三島病院(蔵貫)開院に関する記述などがあり、本業である医療活動も精力的に行っています。

(本文中敬称略)

 

                        (2025・10・7)

morino-shimafukurouから

 長崎東海研究会のみなさまへー

 「長崎東海日誌について」、熱心に読んでくださりありがとうございます。できましたら、ご感想など下の「コメント」欄にお書き下さればと思います。また、みなさまそれぞれのご研究の成果や新事実などもご発表いただければ嬉しく思います。どうかよろしくお願いいたします。

 読者のみなさまもご感想などお寄せください。よろしくお願いいたします。

芝居を、遊ぶ!(「じじばばー」点描)

 今年の「じじばば」の芝居、「国定忠治」をやるけん、これ15分くらいの台本にしてや!

 そう言って老人クラブの大御所のMさんがやって来たのは6月のことでした。渡されたのは、11ポイントくらいの細かな字がびっしりのA4紙14ページにも及ぶ脚本。これ、そのままやったら1時間以上かかるな、そもそもこれ演じられる人この辺には誰もいないな、・・・途方もないものをもってこられたな、とびびりました。

 わたしの苦悶・苦闘(!?)がはじまりました。悩んだ末、わたしが思い至ったのは、そうだ!あの誰でもが知っている「赤城の山も今宵限り・・・」の名場面だけを取り上げよう!。

 14ページ目にあったその場面、声に出して読んでみるとたったの5分弱。う~ん??。どうやって尾ひれをつけたらいいんだろう?そこで、考えました。

・最初に、あの東海林太郎の「名月赤城山」を流そう。

・それから、何もない明月だけが輝いている舞台をお客さんに見てもらいながら、「ナレーション」を入れて、赤城山に忠治たちが立てこもったワケを示そう。

・荒唐無稽でも、悪代官たちとのおもしろい戦いの場面を入れよう。

・忠治たちがなぜ「赤城落ち」をしなければならなかったのかを、子分の円蔵のセリフによって示そう。

・あの名場面のなかでも、笑いをとれるような台詞を入れて、少しでも時間を延ばせるようにしよう。

・要するに、喜劇仕立ての「国定忠治」にしよう。

 そうしてできたのが、文末に載せた「台本」です。

 年寄りの演芸会なので全体で3時間くらいが限度。他にカラオケや踊りなどもあるので芝居にとれる時間はやはり15分くらいのものでしょう。

 わたしが最も考えたのは、わたしの台本はみんなの ❝たたき台❞ としてのもので、これをもとにして、みんなが ❝こうしよう、ああしよう❞ と意見を出し合って ❝みんなの芝居❞ をつくりあげよう!ということでした。楽しくなければ「じじばばー」ではない。芝居を通して遊ぼう!ということです。

 8月の第一土曜日から、毎週土曜日に集まって2カ月間。ほんとうに楽しい時間が持てました。「スーパー演芸会」、こういうことが醍醐味なんです。至福なんです。

 練習を始めたころは、みんなぎこちなかったものの、回を重ねるごとにみんなの顔が笑顔いっぱいに輝き始めました。特に冒頭の ❝戦いの場面❞ などアドリブがどんどん出て、いやもうおもしろいのなんの。悪代官役のわたしなど、観客席で見ていた女房殿から ❝ちっとも悪が効いていなかった❞ と叱られる始末(そうかなあ、メイッパイ憎々しげに演じたつもりだったのですが)。いやはやなんとも。

 忠治役の川端さん、頑張りました。眠れない夜が続いたそう。夜中に目が覚めると、布団の中でセリフをブツブツつぶやいたり、起きだして刀を振り回して練習したそうです。旦那さんもユーチューブなど開いて献身的に協力されたそうです。

 福ちゃんと春ちゃんの戦いの場面の掛け合いも面白かった。春ちゃんなど会場に向かって何やら演説まではじめたりして。もちろんアドリブ。あれ、記録されていたら最高でしょうね。

 小道具担当の方たちも頑張りました。カラス役の伊勢さん、カラスづくりに凝りに凝りました。忠治の座る岩もです。月の高月さんも張り切りました。わが女房殿も万年溜や横笛や御用提灯(4リッターの焼酎のあきペットボトル使用)づくりに奮闘しました。

 やっぱりわたしたち年寄り。途中、体調を崩して何人かが「代役を立ててくれ」のSOS。天晴農園の若い二人が友情出演してくれたのには本当に嬉しかった。助かりました。年寄りみんな元気をもらって機嫌上々々。

 若い人たち自身も、とても素敵な体験ができたと感激してくれて、地域デビューもできてたくさんのひとに声をかけてもらえるようになったと喜んでくれました。 こんなことこういう機会でもないとできなかったかも。

 「国定忠治・名月赤城山」、あの新国劇辰巳柳太郎)が18番とした芝居、わたしたち世代まではみんな知っていても、今の若い人たちは知らないかもしれませんね。でも彼らに知ってもらえる機会をつくれたこと嬉しく思います。

 また、こういう定番中の定番みたいなものの存在というのは、わたしたちを結びつける重要な役割を果たしてくれていることに思いが至ります。

 みなさまもぜひ挑戦して見て下さい。

 とにかく、会場大爆笑、大絶賛の15分間でした!

 

【芝居台本】

                 2025年9月28日

              第4回じじばばスーパー演芸会

 

         じじばば劇団・寸劇「台本」(俵津老人クラブ編)

                国定忠治・名月赤城山

                  (1幕4場)

 

 

〈配役〉

 

国定忠治    川端捷代

日光の円蔵(子分)  崎山達也(友情出演)

巌鉄(〃)    永山福重

定八(〃)    酒井優佑(友情出演)

悪代官(武恒三郎兵衛)   宇都宮氏康

手下1           永山ナカ子

手下2           片岡春江

手下3           日越長子

カラス(雁)    伊勢富雄    

月         高月信夫

ナレーション  宇都宮氏康

演出   門家 久子  

 

 ❤これは、あくまで一つの「案」です。みんなで、自由に、考え合って、アイディア出し合って、話し合って、面白い芝居と舞台を作りましょう!!!観客を唸らせましょう!

                    ❤

 

東海林太郎の「名月赤城山」を1番だけ流す

 

――― 緞帳上げる ―――

 

(何もない舞台。大きな月だけがある。)

 

〈ナレーション〉

 

 時は江戸時代。ここは上州赤城山国定忠治天保7年の大飢饉と、悪代官・武恒三郎兵衛の悪政で苦しむ農民を助けるために、代官所をおそって、農民たちを救った。

 追っ手に追われた忠治と子分たちは、赤城山に立てこもった。

 澄んだ空には明月がこうこうと山を照らしていた。

 遠くで雁が、かすかに鳴いていた。

 と、そこへ。

悪代官と手下たちが現れ、忠治たちを取り囲んだのであった。

 

◆シーン1

 

(舞台上手から悪代官と手下1・2・3出る)

 

手下1・2・3(一人3回ずつ) 御用だ!御用だ!御用だ!

 

(ほぼ同時に下手から忠治と子分たち登場)

 

悪代官 やい、忠治。ここで会ったが百年目。よくも代官所をメチャメチャにしてくれやがったな。生かしちゃおけねえぞ。やろうども、たたっ切れえー。

 

手下1・2・3(一斉に)  おーーー。

 

忠治 何ぬかしやがる。国の宝の農民を苦しめる、悪代官め。今度こそやっつけてやる。おい、みんな、こらしめてやれえ。

 

子分たち おーーー。

 

みんなで考えて、おもしろく戦う。3分~5分程度。アドリブで何じゃかんじゃ言うても可)・・・・・・・・・・・・・・

 

(悪党ども、去る。静けさ戻る)

シーン2

(間)

円蔵 親分!今日のところは、ヤツらを追い払ったものの、敵はこのあと、倍の人数をくり出して、再びやってくるでしょう。ここはひとつ、われら、山を下りて、全国に散らばって、力を養うのが上策かと思いやすが、いかがなもんでしょう?

 

忠治 (間)うむ。そうじゃな。そうしよう。(間)(立ち上がって)これ、鉄。

 

巌鉄 へい。

 

忠治 定八。

 

定八 へい。なんです、親分。(間)

 

忠治 赤城の山も今夜を限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手めえ達とも、別れ別れになる首途だ。

 

定八 そう云やなんだか嫌に寂しい気がしやすぜ。

 

(雁の声。カアカアと鳴きながらカラス役舞台右から左へ横切る)

 

巌鉄 あゝ、雁が鳴いて南の空へ飛んでいかあ。

 

忠治 今のは、ありゃあなんだ?俵津の雁はカアカアと鳴くのか?

 

(子分一同ずっこける)

 

シーン3

(間)

忠治 月も西山に傾くようだ。(役、月をガクッと落とす)

 

定八 俺ぁ明日どっちへ行こうか?う~ン? (間)(立ち上がって、ポンと手を打って)そうだ! 今NHK大河ドラマでやってる吉原へいくべ。瀬川ちゃーん。待っててやー。

 

巌鉄 ばかやろう。ベラボーめ。(間)おらは日本一の桜の名所、俵津の野福峠に行きてえ。

 

忠治 心の向くまま・足の向くまま、当ても・果てしもねえ旅へ立つのだ。

 

巌鉄・定八 親分!(泣く)

 

(笛の音、聞こゆ。)(誰かに笛を吹いてもらう。CDの擬音でも可)

 

定八 (間。しばらく聞いてから)ああ、円蔵兄貴が・・・・・。

 

忠治 あいつもヤッパリ、故郷の空が恋しいんだろう。

 

シーン4

(間)

(忠治、一刀を抜いて溜池の水に洗い、その後定八が刀を拭う。その後で忠治刃を月光にかざし――)

 

忠治 加賀の国の住人小松五郎義兼が鍛えた業物、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ、生涯手めえという強い味方があったのだ。

 

子分一同  おやぶーーん・・・・・

 

(析の頭)笛の音、山嵐、この模様よろしく。

 

カラス役、また、カアカアと鳴きながら、舞台下手から上手へ横切る)

 

―――― 幕 ――――(緞帳降ろす)

   

 

 

 

MEMO

 

  • 〈用意するもの〉        ●〈練習日程〉

 

・衣装              ・8月2日(土)、夜7時から

・刀(8本)           ・以後毎週土曜日に 

・十手(3)

・わらじ(祭り鹿の子予備)   ※それまでは、各自で「台本」

・御用ちょうちん(ペットボトル)  をながめて、覚えていてくだ

・ドーラン             さい。所作も工夫しておいて

・月(市川会長用意)          ください。(自宅練習)

・ススキ(門家)

・万年溜池(段ボール・フェルトほか)

・笛の音(スマホからCD化)

・横笛(竹で)

・カラス

・かつら

・タオル

・はちまき

東海林太郎の歌(CD)

 

(実行委員会・事務局)

 

 

                        (2025・10・3)

morino-shimafukurouから

 宇都宮胡瓜さんが、ご自身の「メルマガ」に写真を載せてくれています。ぜひ見て下さい。右のリンク欄(一番上)から入ってください。胡瓜さんは、ジャラジャラにならず、品よく、好感度の高いいい芝居になっていたね、と言ってくれました。

「じじばばー」今年のプログラム

      9月28日・日曜日、午後一時から、「第4回じじばばスーパー演芸会」をやりました。満員御礼の大盛会でした。今年のプログラムを挙げておきます。

                   ◆

 

                                          2025・9・28

 

                           「第4回じじばばスーパー演芸会」プログラム

 

                                                                                            主催・俵津老人クラブ

           〈協力〉俵津地域づくり活動センター・俵津スマイル・俵津婦人会・笑丸

 

・開会の辞(司会・門家久子)

・会長あいさつ  市川以世男

・来賓紹介(司会・門家久子)

・来賓代表挨拶  酒井宇之吉(西予市議会議員)

・石川智也駐在所長から

 

                                                            第1部

 

■オープニング

  俵津婦人会①

   「ハワイアン・インザシー」

  (脇本美千代・市川京子・中村尚美・高岡ルミ子・池ヶ谷実希)

■腹話術?

   浅井裕史 「文楽人形あさか姫とヒロシの文楽公演PR」

■カラオケ

1、山下教子 「じょんがら女節」 (長山洋子

2、宇都宮頼男 「おまえにありがとう」 (山本譲二

3、宇都宮氏康 「渡月橋」 (五木ひろし

4、門家久子  「越佐海峡・・・恋情話」(真木柚布子)

5、石川智也  「糸」 (中島みゆき

■ニコマル・スペシャル・ショー

  (片岡星也・片岡正嘉・酒井優佑・酒井圭太・崎山達也・宇都宮晃仁)

   ・「パラダイス銀河」 (光GENJI

   ・「ギンギラギンにさりげなく」 (近藤真彦

   ・「世界に一つだけの花」 (SMAP

  6、高月信夫  「夫婦すごろく」 (北野まち子)

  7、りんりん  「無縁坂」 (グレープ)

  8、宇都宮英美 「北の海峡」 (坂本冬美) -1

  9、東 新三  「長良川演歌」 (五木ひろし) 

  10、尾下キクミ  「人生一路」 (美空ひばり

  11、三好富雄  「乾杯しようぜ」 (千昌夫

  

            〈休憩〉        (10分)

 

                                                           第2部

 

■芝居・「国定忠治・名月赤城山」  (じじばば劇団)

(永山福重・永山ナカ子・片岡春江・川端捷代・伊勢富雄・日越長子・宇都宮氏康・酒井優佑・崎山達也・高月信夫)

 

■踊り

  鎌倉悦子 「島田のブンブン」(中村美律子

 

■踊り

 俵津婦人会②

「真赤な太陽」

(川崎美里・井上理恵・橋本幸枝・酒井千恵美・高岡まり子・伊勢要子)

 

■カラオケ

1、横山三恵子 「人生いろいろ」 (島倉千代子

2、市川以世男 「ひとり歩き」(越前二郎) -3

3、宇都宮敦  「夢の途中」 (キスギタカオ) 

4、市川美代香 「歌だよ!人生」(中村美律子

5、中村ひづる  「みちづれ」 (牧村三枝子

6、小濱節子 「送り酒 (民謡入り)」 (三笠優子)

7、山下由紀江 「女の花道」 (永井裕子) -1

8、佐藤美智子 「糸」 (中島みゆき

    佐藤歌 (踊り)

9、宇都宮利博 「ありがとう・・・感謝」(小金沢昇司

10、みほ    「夜明けのブルース」 (五木ひろし

11、山下省三 「男一代」 (北島三郎

 

※「抽選番号券」配布

 

■フィナーレ

  会場全員による踊り(「炭坑節」)

 

■閉会

  ・閉会の辞(司会・門家久子)

  ・閉会あいさつ(副会長・伊勢富雄)

 

■抽選会

 

              ♥本日はありがとうございました!

 

                        (2025・9・30)