虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

【話し合い資料】想田和弘さんの意見(ああ参院選・続々々)

 4月15日の朝日新聞・「オピニオン&フォーラム  耕論」のページに、「戦うべきか、否か」というテーマの特集があり、3人の方のインタビュー記事が載っていました。その内の一人・想田和弘さん(映画監督)の論に「うーむ」と感じ入りました。深く考えさせられました。切り抜きしていましたので紹介させていただきます。俵津のみんなで話し合う資料になったらいいなと思います。

 想田さんについてわたしは何も知りませんが、新聞の紹介では、「1970年生まれ。作品に「選挙」「Peace」など。著書に「日本人は民主主義を捨てたがっているのか?」など。」とあります。

 

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■ 非暴力抵抗こそ民を守る

 たとえ戦争になっても、私は銃は取りません。

 そもそも戦争が始まってしまったら終わりなんです。一番大事なのは、戦争が起きないようにすること。そのために政治や外交、経済や文化の交流があります。

 確かに主権国家には自衛権がある。でも、攻められたからといって応戦すれば、相手も応戦し、暴力の連鎖が始まります。本当に国や人々を守れるかというと、難しい。今回のウクライナを見てもわかるでしょう。町や村が破壊され、大勢の人が死んでいく。これは取り返しがつきません。侵略者を駆逐できたとしても、国がめちゃくちゃになった後では、元も子もない。

 それより、もしかしたら、国の指導者が一切交戦しないことを決断し、国を挙げての組織的で徹底的な非暴力・不服従の抵抗を呼びかけた方が、国や民を守れる可能性があるのではないか。侵略者に占領されても、軍も警察も官僚も労働者も、組織をあげて一切協力しないのです。人々の協力なしに侵略者は国を支配できないからです。

 究極の選択ですが、非暴力の組織的抵抗には、一定の合理性と倫理的な高潔性があると思うのです。そう考える日本人はごく少数でしょうが、戦争を体験した世代には、もっと多かったと思います。今は戦争に対する現実味が薄れているのかもしれません。

 想像してみてください。自分や家族を守るために、いったい何人殺さなければいけないのか。そういうことが自分に本当に出来るのか。

 戦闘では、銃を発射して相手の頭や胸に命中させないといけない。頭に命中したら脳みそが飛び散ったり血が噴き出したりする。私は自分にそういうことが可能だと想像できない。仮に可能だとしても、それで生き延びて、幸福になれるのだろうか。

 相手の兵も民衆です。敵国のトップに弾は届きません。民衆同士が殺し合って、何になるのでしょう。

 侵略者に占領されれば、過酷な弾圧や投獄、処刑などの仕打ちにあう恐れもあります。それでも国と民が組織的に非協力を貫けば、侵略者は占領地をうまく統治できず成果をあげられません。米国の政治学ジーン・シャープは抵抗の手法を198挙げました。こうした手法を駆使し、あくまでも非暴力的抵抗を貫くべきだと思います。

 逆に、武力行使を選べば、自国の政府も全体主義に傾き、個人の人権よりも国益が優先され、個人は国のために命を差し出せということになります。それが戦争です。武器を取るか投獄されるかを選ぶなら、とても嫌ですが、私は投獄を選ぶでしょう。

 侵略者と戦時下の自国政府のどっちを恐れるべきか。どっちも怖いですよ。

 

                      (2022・7・6)