虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

追悼・宇都宮彪さん。

 俵津の名士・宇都宮彪(うつのみや・たけし)さんが、8月20日逝去されました。享年96歳。田中恒利さんや中村義兼さんたちと共に、俵津の一時代を築かれた人でした。謹んで哀悼の意を表しますと共にご冥福をお祈りいたします。

 こういう方の人生を素描して記録しておきたいな、と思っていたら、安達生恒先生の『むらの戦後史 南伊予みかんの里 農と人の物語』(有斐閣、1989)の中に彪さんのことが書かれていたことを思い出しましたので、今回はそれを引用させていただいて、追悼に代えさせていただきます。

 

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 明浜では農業や漁業の「一番さん」は誰になるのかと訊ねると、農業なら狩江では幸地久志、俵津では宇都宮彪、漁業なら俵津の中村義兼という答えがすぐ返ってきた。それは衆目の一致するところだという。

 宇都宮彪、一九二五年(大正一四年)生れ。敗戦のとき彪は二〇歳、二等兵として満州の新京にいた。彪は七人兄弟の第二子で、母は彼が九歳のとき亡くなった。小学校を出ると大阪にいき、勤めながら夜学に通い、青年師範学校に受かったが、父の反対にあって進学を断念して帰郷し、日雇に出て家計を助けた。網船に乗らなかったのは、漁業にあった親方・子方制度に反発を感じていたからだという。彪の祖父は博労で、牛の売買に朝鮮や沖縄まで歩いた人だが、結局、商売には成功せず、負債を残したまま沖縄でなくなった。そのため父は家産を整理し三反の小作人となったので、彪は小さいときから働かなければならなかった。

 兵隊から帰ると、彪は豚を飼い出した。当時、俵津には養豚家が二人いた。そこから子豚を一頭五〇〇〇円で分けてもらった。「牛の子よりも豚が高かった」といっている。食糧難のころ、芋蔓を食わせて短期間で育つ豚のほうが需要が多かったせいである。

 芋蔓養豚で彪は儲けた。年に四回子豚を生ませ、母豚一頭で一万三〇〇〇円を稼ぎ出した。この金で芋畑を買い足し、一九五〇年には五〇アールの農家となった。

 翌五一年には早くも三〇アールの芋畑を蜜柑園に転換し、温州より成長の早い夏柑の栽培をはじめ出した。豚といい、蜜柑といい、彪のやることは人よりも一足早い。蜜柑栽培の技術は吉田町の「村一番」、マル宇のおっちゃんに習った。

 一九五五年には山を一ヘクタール買い、開墾して夏柑と温州を半々ずつ植え、一・三ヘクタールの果樹農家となる。そのころは日本の経済も回復し、街では株が流行り、投資信託に人気が集まった。彪は『野田経済』を丹念に読み、株で儲けた金を投資信託に回し、殖やした金でさらに蜜柑畑を買い足し、一九七二年には二ヘクタールの蜜柑経営者となった。早生温州を二〇アール、普通温州を六〇アール、他は甘夏柑などの雑柑を植え、品種の多様化をはかっているのも、他の農家より五、六年は早い。このころは蜜柑の値段が最高だった。蜜柑だけで年に二五〇万円の純益をあげたという。

 彪の長男は愛媛大学に進み、卒業後は熊本県の蜜柑どころ玉名市に留学し、さらに二年間宇和青果に勤めた後、帰農して父の経営を継いでいる。三〇アールの芋・麦小作農から身を興し、敗戦後ただちに豚を飼い、芋畑をいち早く蜜柑畑に転換し、株で儲けた金で蜜柑畑を二ヘクタールにまで拡大して俵津では一、二を争う蜜柑農家となり、さらに温州蜜柑の下落を見越して人よりは五、六年も早く品種の多様化を行い、息子を大学に出して立派な跡とりを得た。先を見越した経営の才覚と確かな技術と子育てのうまさ、その実績の故に彪は農業の「村一番」といわれるのだ。

(第二章 村に帰ってきた若者たち 戦後復興のなかの青年群像、4「村一番さん」たちー彪・義兼・恒利・宮本ら、から。97~100頁)

 

《メモ》

1、安達生恒さんは、1918年新潟県生まれ、2000年歿。愛媛大学島根大学教授を歴任された大農学者。社会農学を創始。明浜町と最も深く関わっていただいた学者です。

2、彪さんは、昭和26年から昭和45年まで、俵津村議1期、明浜町議3期をされております。晩年は、「新田の歴史」の研究に情熱を傾けられていたそうです。

 

                        (2020・8・30)