虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

【寄稿】!

            ジジババ祭り

                      団塊小太郎

 

高齢者とか老人とは一体どのような人のことを、言うのであろうか。最近とみに力にあふれエネルギッシュな人たちの多いことか。目をみはるばかりである。

 

最近の高齢者の中核をなすのは、いわゆる堺屋太一氏が名付け親の団塊の世代である。この世代は戦後の民主主義の薫陶を受けた、第一世代である。

 

その後高度成長期には企業戦士として経済の最前線で勇猛果敢に戦い、また安保闘争や大学立法反対など戦後体制の批判・抵抗と反体制活動への運動なども、盛んな世代であった。

 

田舎暮らし故にみな同じステージを過ごしてきた。生まれたところも同じなら泉下もまた目と鼻の先にある。小学校中学校と互いに机を並べ、互いによく学びよく遊んだ仲である。また戦後の困苦欠乏の時代も互いに芋とカイボシの粗食に耐え、乗り越えてきた世代である。

 

戦後七十有余年を経て老境に差し掛かりつつある今日、朝露のはかなさに我が身を重ね道辺の花にいとおしさを抱き、泣いているのかと思えるほどの風の音に、心を奪われる。

 

もう一度青春が取り戻せるならばとはかない夢を見ながら、見上げた雲の何と白いことか。心洗われる気がするが思えば人生は紆余曲折の中にありまた繰り返す蹉跌とともに、あるのであろう。

 

しかしたとえ青春を取り戻せたとして、果たして何がしたいのであろうか。その解のないこと或いは見つけられず歳を重ねたことこそが、青春なのかもしれない。歳はかさねても気持ちは青春だと言う人は、多いのではないか。中には自分が高齢者だと自覚してない人も、いるのではないだろうか。

 

その青春をもう一度取り戻し爆発させようとする企画が老人会有志によって開催され、十月九日俵津公民館でかいさいされた。

その可笑しさに加え面白さとは入れ歯を飛ばして笑い転げると言ったほどの、笑いであった。何故そんなに面白かったかというと、会場に入る前から笑い転げてやろうと、皆が心の準備をしていたことに他ならない。何も楽しみのない田舎暮らしならではのことである。

 

それは数十年前の学芸会が再現されたようで、歌って踊って演劇にと、皆真剣であった。真剣であるがゆえによけいに可笑しさ面白さがふくらみ、青春を謳歌した一日であったであろう。

 

これは青春ではなく老春だと、言えるかもしれない。いくら意地を張っても残された時間は少なくなるばかりで、野福の桜もあと何度見られるか。棺桶に向かって早足で近寄っているのか、棺桶が寄ってくるのか分からないが、この秋の心地よい日差しと風の中でおおいに老春を楽しんだ一日で、寿命も少しは伸びたことであろう。

 

このような今までにない初めてのジジババ祭りが開催できたことは、ひとえに団塊世代の既成概念にとらわれない、自由な発想の賜物である。

 

年に一度と言わずに二度三度と言う声もあったと聞くが、それこそが密かに心身に潜む老人パワーの、源であろう。再びステージの上で可笑しさと笑いが、相まみえる日が来ることを、願うばかりである。老春万歳。

 

(2022・10・30)

 

 

「じじばばー」余話・余聞・余録・余波・・・爆風のゆくえは?!

※ 「俵津公民館だより」(令和4年10月20日発行)が、「じじばばー」を取り上げてくれました。右のリンク欄の「俵津ホームページ」から見てみてください。カラー写真が沢山載せられているので当日の雰囲気が味わえると思います。記事を書いた酒井一喜主事も初体験の芝居に興奮したのでしょうか!自身も出た「水戸黄門」の写真が多くてちょっと、という感はありますが・・。(ちなみに写真上段右から2番目、多分これわたしだと、思います!鳥羽一郎の「海の匂いのお母さん」を歌って観客の涙を誘った?!のでした?!)

                   ■

♡ 「よかったねえ!あんな演芸会だったら、年1回なんて言わず、2回でも3回でもやって欲しい!という声がいっぱいあったよ」(伊勢富雄さん)

♡ 「誘ってもらったのに出れなくて残念。来年は都はるみの〈好きになった人〉を、舞台いっぱい駆け回って歌ってみたい!」(Mさん)

♡ 老人会らしい(?!)場面、随所にありました。伊勢富雄さんと尾下洋子さんのコラボ(「街のサンドイッチマン」)。永山福重さんと山下ノニヤさんのコラボ(「ゴンドラの唄」)。大会当日に促成でできたユニット・「大浦兄弟」(川端捷代さん・西村初美さん・片岡春江さん・高月信夫さん・伊勢富雄さんの5人組で「青い山脈」を歌った)など。これらを見たら、みんな心から愉快な気分になったと思います。ホッコリしたと思います。ほっと安心したと思います。これなら自分も出てみようか、という気持ちになれたと思います。こんなのがいいのですね!

♡ 老人会らしいといえば、入場者全員に配ったペットボトルのお茶と景品のサービスも絶大な効果を発揮したと思う。こういうことがもたらす至福感というものは、あなどれない。片岡春江副会長さんはじめ女性役員さんたちのアイデアと意気込みは半端ないものでした。(お金を惜しんではならないのですね。)

◆ 【水戸黄門

  • ゆめさく一座の芝居・演技、よかった!!今大会で一番特筆すべきは、これだった!彼女たちが、練習を始めたのは本番まで1か月もない時期。しかも仕事で多忙な者ばかり。全員がそろって練習できたのは2~3回しかなかっただろう。よくぞあそこまでもっていってくれたものだと思う。(さらには、客席まで「舞台」にした演出力にも度肝を抜かれた。)

 • 「満員御礼」になったのは、ひとえに一座の力だろう。事前の案内状でプログラムを入れ込んでいたのが効いたのだと思う。 

 • 背景の野福峠の絵は、今年亡くなられた佐藤深志さんが、かつて「新田ふるさとまつり」で同じ「水戸黄門」をやった新田若妻会のために描かれたものです。取っておいてよかった!(何がどこで生きてくるかわからない!)

 • 「めぐみの里」(デイサービスセンター・有料老人ホーム)からオファーがあったそうです。11月12日、同所ホールで再演するそうです。ゆめさく一座の面々、はりきっております!同所所長の清家真知子さんも、茶店の婆婆役で登場していました!なかなかよく響く声で素敵に役をこなしていました!

 • ゆめさく一座の面々、芝居づきました!内なる芝居ごころに火が付きました。練習の時から、演じること、仲間と練習すること・・等々の喜び・楽しさを語っていました。来年4月の老人会総会の余興で「白波五人男」をやる!!と気炎を上げてくれました。

 • 脚本を書いた宇都宮末夫さんからのコメントメールの一節です。

水戸黄門(劇)は、時代劇で育った我々世代と、バラエティーで育った世代との、世代間格差が意外と大きいことを知ることとなりました。」 

♥ 「プロジェクター紙芝居」に出た浅井裕史さんからのメール

〈「じじばばスーパー演芸会・2022」お疲れ様でした。私たちも、楽しいひと時を過ごせました。カラオケ、演劇、ギター演奏、俵津らしい演芸会であったかと思います。来年は、かみしばい、演劇で「長崎東海」もおもしろそうですね。色々、寸劇など、できたらいいなと思います。よろしくお願いします。〉

                   ■

♡ カラオケ喫茶「うきな&はまゆう」と市川以世男・美代香ご夫妻のご協力は、言い尽くせないほど大きいものがありました。8月から大会前日の10月8日まで、飲み物代500円のみで歌い放題のサービスをしていただき、出演者にはキー設定などの指導もしていただきました。日を追うごとに、時間がたつごとに大会への“ムード”を高めていただいた功績は本当に大きかったと思います。店に通った2か月余はほんとうに楽しい時間でした。

♥ 大会近くなると、俵津の美容室や理容室も、賑わいを見せたことと思います。そこで「じじばばー」が話題になり、出演者各自の舞台の話がなされる。そんな光景が目に浮かびます。

♡ 出演者はまたこの期間、眠れぬ夜を過ごしたことでしょう。そんな“ワクワクのとき”が年をとってもある、ということはステキなことではないでしょうか。俵津の活性化、目には見えなくてもそんなことも大事なことだと思います・・。

                   ■

◆ 【コロナ感染対策】

 これは、出来る限りのことをやりました。

・マスク着用。忘れてくる人のために、たくさんの予備を購入していました。

・体温チェック。37度以上の人は入れないと決め、1階玄関で徹底しました。また、手指消毒も徹底しました。

・観客の氏名を記録。

・こどもの入場禁止。学校でクラスターが発生してはいけないので、涙を呑んで決断。(実際に5~6人来たそうで、わたしもその中の一人に対応しましたが、説明して帰すのがほんとうにつらかったです。)

・南北の窓、入口ドアの全開放(換気の徹底)。寒い、閉めてくれという人もいましたが徹底しました。近所への騒音の心配がありましたので、お断りの挨拶をして回りました。

・当日はまことに快適な気温でしたので、必要はなかったのですが、天井のエアコンの使用はやめよう!と決めていました。コロナウィルスはミクロン単位の超微粒子(エアロゾル)、軽いから上昇する。それをクーラーの下降気流で押し下げるのは愚の骨頂。

❤ じじばばの舞台、子や孫に見せたい!じいちゃんやばあちゃんが頑張っている姿、楽しんでいる姿を見てもらいたい!それはわたしたちの願いでしたが、今回は涙を呑んで諦めました。

  そのことの別な意味、もあると思うのです。わたしたちの子供の頃、新田地区ではご先祖様の命日(旧2月9日)には、青年と婦人たちが小学校から舞台を借りてきて、さへやのはまで演芸会をやっておりました。その楽しさがみんなの体にしみこんでいました。そのことが後年、わたしたちが「新田ふるさとまつり」をやることにつながったのです。だから、子や孫に、子どもたちに、「見せること」が必要なのです、大切なのです。それが、地域を継承していく原動力になるのです。・・・今回の大会も、どこかで「新田ふるさとまつり」を再現したい!という思いがありました。老人クラブという場所と人を得て、それが実現できたことに心からの感動を覚えております。

                    ■

 わたしの夢は、保育所の園児から、小中高生、青・壮・老まで俵津地区民全員でやる「スーパー・スーパー演芸会」です。俵津を演芸の町にすることです。すでにこの企画書は、俵津ホームページ(コラム・「たわらんどものがたり」)にあげてあります。だれか「やろう!!」という人いませんか??!

                   (2022・10・25)

 

 

 

 

たいしたもんだ俵津トシヨリ!ついにやったぜ!「じじばばー」!

※ この報告(記事)は、ホントはもっと早く書きたかったのですが、なにせまだ「コロナ禍」中。感染者の有無がはっきりするまではとてもその気になれない。一週間が過ぎ、一人の感染者も出ていないらしいことがわかって、やっと書き出すことができるようになりました。

 ついに、やりました!10月9日(日)!

 「じじばばスーパー演芸会・2022」

 いやあ、長かった。3年前に企画したこの大会。「コロナ」に阻まれて、なんとも身動きがとれず、老人クラブ役員一同燃焼できない悶々たる日々を重ねてきました。そして、みんなは、ついに思い切ったのでした。

 開会あいさつで、永山会長が言います。「3年に及ぶコロナ禍の中で、このままでは俵津がダメになる。老人クラブもダメになる。俵津を活性化したい。老人クラブも活性化したい。面白い老人クラブをつくりたい。わたしたちは心を決めました。やりましょう。今日いっぱい楽しみましょう。よろしくおねがいします。」

 自画自賛では野福峠のカラスに笑われますが、ホントにすばらしい「演芸会」になったと思います。「スーパー」の名を付けて恥じないものになったと思います。

 プログラムは、

1・会の最長老(90歳)酒井千昔さん率いるあけはま座(11人)による朗読劇、「プロジェクター紙芝居・モチモチの木」。

2・カラオケ 〈1部・2部構成〉。総勢41人出演。熱唱、また熱唱。

3・ゆめさく一座(宇都宮由美子座長、11人)による寸劇、「水戸黄門諸国漫遊記・野福峠編」(原作脚本・宇都宮末夫さん)。

4・島原糸美さんの「舞踊」。

5・宇都宮末夫さんの「ギター演奏」。

 3時間半の大熱演が繰り広げられました。

 わたしは、出演者に向けた「案内状」に書きました。

〈舞台に立つ!あなたに!

自分を最高に輝かしてください!

「もう一花咲かそうじゃないか!」を合言葉に、3年前に企画されたこの大会。憎っくきコロナのために艱難辛苦を強いられて後、やっと来ました、その日が。みなさま!やろうじゃありませんか!楽しみましょう!思いっきり弾けてください!!〉

 みんな、本当に、燃えました。輝きました。晴れて舞台に立てる喜びに満ち満ちた顔、顔、顔。

 感動は、三つにありました。

1、その出演者の熱演

2、観客。わたしたちはコロナがおさまりきらないこの状況下では、客は来ないだろうと思っていたのですが、来ました!来ました!距離を開けて100席ほど並べていたパイプ椅子、到底足りず160人ほどの客が入りました。俵津公民館ではかつてない人数です。しかも、そのお客さんがほとんど誰一人途中で帰らないのです。最後まで見てくれたのです。こんな感動があるでしょうか。

3、老人クラブ役員(23人)と特にお願いした5人で構成するスタッフの一糸乱れぬ活躍。これは本当に素晴らしかったです。わたしはジーンと胸に熱いものを感じっぱなしでした。五日前に届いた永山会長によるスタッフへの礼状ハガキにはこうあります。

「この様な大会が実現できたのは、(略)役員の皆様が一心不乱で各担当ごとに頑張っていただいたお陰だと思います。会場の準備から後片付けまで人生経験の豊かさを物語り、てきぱきとした実に見事なものでした。これまで、神社や公民館の周辺の清掃の場でしか見ていなかった役員の方々のパワーのすごさに、あらためてびっくりしています。会長として心から感謝とお礼を申し上げます。」

 大会全体が「みんなで作ったスーパー群像劇」でした。

 当日すべてを終えて帰宅したわたしに、「よかったねえ!すごかったねえ!」妻の讃嘆の声が待っていました。「外に出たお客さんも、その場を去りがたい思いでいるのが感じられたよ」。

 夜には同級生の西田初敏くん(彼ももちろんスタッフです)から電話がありました。「よかったのお!よかったのお!」という彼の声は感に堪えたようでした。コロナ下の開催を人一倍心配してくれた彼。よほど嬉しかったのでしょう。翌日早朝には、ウオーキング途中の中村かおりさんから「いいもの見せてもらった!」のひと声。以後、絶賛の嵐が!!??

 思い切ってやってよかった!あらためて、しみじみ思います。

 ホントにたいしたもんだぜ。俵津の年寄り。「老人の老人による老人のための大会」を目指していたのに、いつの間にかそれは若い人たちの応援参加までを呼び込んだ俵津の大きな催しにまで発展したのでした。

 「これだと、来年は、うちも出たい、おらも出たい、というもんが殺到するんじゃないか」。永山会長が言います。エッ・・!?来年もやるの!!??

                    (2022・10・17)

 10月23日には、「俵津秋祭り」も開催されます。俵津も少しづつウィズ・コロナに向けて歩み始めました。

 

 

 

 

 

さて、俵津は・・・

 前回、無茶々園について語り始めた職員や生産者の紹介をしながら、いろいろな感慨を覚えた。

・取材者の“言葉を引き出す力”が大きいのだろうけれど、それにしても、あんなふうにはわれわれ、とても語れないよなあ。

・無茶々園には、ホントにいい職員が来てくれたなあ。

・それは、無茶々園の魅力が、そうさせたのだろうけれど、それだけではないよなあ。やっぱり狩江とそこの人たちの魅力が、彼らをとらえたのだろうな。

・さて、俵津は、どうなんだろう。あんなふうに味のある豊かな言葉を紡ぎだせる人間が何人いるだろう?(わたしなんか、とてもとてもだめだなあ)。

・俵津に「無茶々園」のようなものを創り出す力が、はたしてあるだろうか。俵津は他所の人をここに住みたい、ここで働きたい、と思わせることができるだろうか。・・・・・

 とまあ、そんなことどもだ・・・。

 俵津は俵津。そんな“対抗意識”(のようなもの)など持たなくていいのではないか。もちろんそうだ。そうではあっても、人が生きるのは、生涯のほとんどを過ごすのは、やはり俵津や狩江が「村」であったころの行政単位としての小邑・字(あざ)だ。一人の人間が責任を持てる範囲というか、住民の仲間たちが何かを共同で熱い共感を保ちながらつくっていける適度な空間の中だ。狩江村の共同体員たちが、長い年月をかけて築きあげてきたものに思いをはせておくことは、俵津のまちづくりにとって無駄ではないだろう。

 何が、狩江をそうしたのだろう?前にも書いたが、永山福重さんは、それは教育の差だという。教育力の差だという。

 確かに狩江はいわゆる学校教育に熱心なところであった。大学までの進学率も高い。それは大きな要因になる。

 もう一つは「地域の教育力」という言葉があるが、それだ。地域が、風土が、それを創った。狩江の人たちは、その歴史の中で、その条件を活かして地区を守り育てる明確な意識を持つようになったのだろう。

 そこに、石灰岩(メッカラ石)の「石垣」の力は、とてつもなく大きく作用しただろう。人が自分の住む地区を守っていかなければならない、という強烈な意識を代々持って伝え続けて行こうとするとき、こういう大規模な目に見えるものがどうしても必要になる。かつて片山元治はそれを「狩江は“化石”が生きる町だ!」と表現した。宇和島市遊子水荷浦の段々畑をみてもそれは分かるだろう。あの見事な石垣段があるからこそ、過疎化がどんなに進んでもそこを守ろうとする“熱い思い”を持った人たちが出現し続けるのだ。

 狩江の段畑にまだミカンが植わってない頃の写真を見たことがあるが、ミカンで石垣が隠れていないそれは素晴らしい広大な白い世界だった。水荷浦の何倍もある圧倒的な斜大地だ。

 いまそこは、「ジオパーク」に認定されて、守るべきものとしてさらなる地平へのぼろうとしている。

 もう一つ、狩江をつくったものがある。「まつり」だ。

 まつりは狩江の生命ともいえる、狩江と狩江人を動かすエンジン・心臓だ。祭りにかける狩江の人たちの思いの強さは、俵津のわたしたちとは次元の違う強烈なものがある。

 それは、神輿は○○地区が、牛鬼は○○地区が、船渡御はどこそこが、踊りはどこそこが、というように受け持ちを決めて、その地区民全員が結束して守り抜いていくことで維持されていく。俵津は、祭りそのものを、青年団に丸投げしてしまっていたので、地区民全員が祭りを作る・維持していくという意識が育たなかった。この差はどうしようもなく大きい。

 かたくなな意地、強烈な誇り、そういうものがなくては、村は維持できない。

 海岸の国道からみるミカンの山々、石垣に植えられたその園地は、どこも荒れていない。しっかりした「風景」が存在している。俵津や他の地区にみられる荒廃園はないのだ。地域の教育力というものの見事な結晶と言わなくてはならないだろう。

 さて、俵津。これから、どうする?

 狩江や無茶々園のマネはできないのだから、俵津独自のやり方を編み出すほかはないだろう。

 課題は、はっきりしている。

・「さくらのまち」をつくる。

・ミカンの荒廃園を元に戻す。

・海に魚介類をあふれさせる。

・人口を増やす。

・人を呼び込む。

・公民館に集まる。

・楽しみを作る。

 中心になるのは、ゆめさく・天晴農園・新こせがれ会・スマイルなどだろう。(われわれ老人会も加えていただこうか。)

 「ゆめさく」(宇都宮由美子代表)が、新しいチャレンジを始めようとしている!あの農協本所だった建物を再利用しようとしているのだ。いま、老人会の「じじばばスーパー演芸会・2022」に芝居で応援参加してくれている中、代表がその構想を語ってくれたが、とても素晴らしいものだ。農協の承諾を取り付け、資金のめども立っているそうだ。2階はこうする、1階はこう、とキラキラ目を輝かせて語る姿は頼もしい。あのあたりと公民館が楕円の二つの中心になって俵津が賑わいを取り戻せば、俵津の可能性の扉が開いていくだろう。いつかこのブログに原稿を書いていただきたいものだ。

 無茶々園のホームページから呼び起こされた感慨を綴ってみた。

                      (2022・9・27)

 

 

無茶々の山を築いた男たち女たちが語り始めた―

ーなぜ、縁もゆかりもない明浜へ?

 まず惹かれたのは明浜の景色ですね。浜に向かって山が拓いていて、海も空も青くて、単純にきれいだなと。それに、無茶々園の活動そのものにも衝撃を受けました。仕事と生活が表裏一体な農家の生業、暮らしぶりがあって、全国各地からいわゆる“ダメな人”、“変わり者”、“いい加減”な人から超インテリまで本当にいろんな人が集まっていました。

 ぼくがここを選んだ基準は、一つではありません。「風景がいい」とか「農業がやりたいから」とか、何か一つではなくて、地域とのつながりだったり、風景のすばらしさだったり、農業や地域の可能性だったり、いろんな価値があったから選びました。価値を見出したのが一つだったら、それが折れたときに終わっちゃうんですよ。

 10代から20代初めの頃、得体のしれない不安や寂しさ、焦りを抱えていました。ぼくが来たとき、地域の人がおもしろがって話しかけてくれて、どこの馬の骨ともわからないぼくにいろんな話をしてくれました。安心感のある人と人とのつながりみたいなのがベースにあるっていい暮らしだなあ、と思いました。

                      (村上尚樹くんの言葉)

 右の「リンク」より「無茶々園」に入ってみてください。そこに、〈暮らす働く〉「無茶々園をぼくらが、いま、えんえん語る」があります。

 「無茶々園」という“山”を築き上げてきた男たち・女たちが、満を持して、語り始めた記録です。昨年8月1日から今日まで、実に11人が登場。ハタノエリという取材者(プロのインタビュアーでしょうか、編集者でしょうか)を得て、各人がまことに魅力的なことばを自由にのびのびと紡ぎ出しています。とても読みごたえがあります。心がさわぎます。大きな共感がやってきます。とても素晴らしいページです。みなさんもぜひ読んでみてください。

 わたしは、ずっと前から、彼らが語りだしてくれるのを待っていました。それがやっと、実現したのです。

 冒頭に掲げたのは、第1回目の村上尚樹くんの言葉です。彼の言葉はじつに味わい深い。宝石箱の中からでてきたもののようです。さらにいくつかあげてみましょうか。

・無茶々園に就職(就農)するまでの2年間、九州から長野まで複数の農家や農業法人を、研修という形でめぐりました。いろんな人といろいろな話をしていく中で、農業というものさしではなく、自分がこの先どういう生き方をしたいかを考えるようになりました。無茶々園がほかと確実にちがったのは、主体が会社や個人ではなく地域というところでした。24歳のとき、無茶々園のある明浜で豊かに楽しく生きていけたらと移住してきました。

・ぼくは一人じゃなくて、みんなでやりたい。てんぽ印でも、それぞれ農場とか作目とか持ち場があって、一人一人が主役で、ときには脇役になって、群像劇みたいな働き方をしたいのです。

・(てんぽ印の)彼らが彼らにとって「いい仕事、いい暮らし」をして、次に都会から来る子たちに「かっこいいな、いいな」と思われるようになればいい。こういう生き方もいいよな、と思われる“生き方モデル”を示せる人間になってほしいし、ぼく自身もそう思われたい。そう思われて、そこに共感した仲間を増やしていきたいですね。「影キャ」が熱量持ったらおもしろいよってことを証明したいのかもしれませんね。

・農業は“いい仕事”です。自分の成長が感じられること、だれかの役に立っていることを実感できるから。この2つの実感があればいい仕事だと思っています。

・現実的にリアルに農業していて感じる不安は、高齢化と人口減少と異常気象なんですよ。気候は10年前と全然違うし、高齢化によってまちが少しづつエネルギーを失っているのを感じています。田舎はどんどん人が減っていく。すごく恐怖を感じます。人を増やさなければならないんです。

・いろいろこじらせていた20代、思ったんです。地域も社会も国も地球も、ほんとはどうでもいいのだって。自分の幸せのことだけ考えたらいい。そして、本気で自分の幸せを突き詰めていけばいいと。するとおのずと、隣にいる人が目に入る。その人がつらそうだと、自分が幸せになれないのだと気づいたのです。

 村上くんは、無茶々園創業者の片山元治がその昔「農土地所有のビッグバンが来る。無茶々園も大農場を持たなければならない」として、南郡や松山に開いた農場の経営を軌道に乗せ、「有限会社てんぽ印」を立ち上げ、社長として活躍しています。

 こうやって、一人一人を紹介していたら、大変なこと(!)になりそうです。あとはみなさんで、見ていただけたらありがたいです。

 もう一人だけ、平野拓也くんのことに触れておきます。

 平野くんは、わたしたち無茶々園の生産者にとって衝撃的存在として現れました。もう大昔の話になりますが、片山から理事会で「東大生が無茶々に就職したい、と言ってきている」という話を聞いたとき、みんなは本当におどろきました。そんなことがホントにあるのか!?。わたしたちの衝撃は、時代が変わったことを実感したこと、無茶々園というものの価値を実感したこと、の二点にありました。

 平野くんは、まことに確固とした自分を持っていて先駆的な生き方をしている。霞が関に就職した若い人たちが、愚かな政治家たちからつまらぬ仕事を押し付けられ過労死寸前まで働かされて、ドンドンやめて行っているというような報道に接すると、余計にそう思うのです。彼らに言いたくなります。地方に来いよ!日本を本当に創るのはこっちからじゃないのかい?!

 余談になりますが、田中恒利さんが現役の衆院議員時代にこんなことを言っていたのを思い出しました。「国会質問の前の晩なんか、彼らがまとわりついて離れんのじゃ。放っておいたらいつまででもいる。答弁書を作るために、質問内容を聞きに来ているんじゃ。しまいにゃかわいそうになって教えてやったが、彼らが哀れでならんかったわい。」

 エネルギーに満ち溢れた(今でも!)片山がいて、その偉大なる奥方・恵子さんがいて、両斎藤がいて、賢人三長老(宇都宮利治・山下佐賢・沖村梅男のお三方)がいて、それから大津清次くんがいて、宇都宮広くんがいて、平野くんたちがいて・・・無茶々の「山」ができた。わたしたち生産者も(夫婦で)がんばったよね。

 わたしは、いま、「語ること」のたいせつさを強く感じています。無茶々園だけではありません。農協や役場の面々。各組織のひとたち、個人・・・。しみじみと、しずかに、せつせつと、あつく、ゆるやかに、はげしく、のびのびと、じゆうに・・・。

 おわりに、「11人」の名前とそれぞれが見つめる「あした」をメモふうに記しておきます。

①村上尚樹(掲載時年齢39歳)

 ・(出身地)石川県・有限会社てんぽ印代表取締役社長

②西原和俊(43)

 ・福岡県久留米市・株式会社地域法人無茶々園業務管理部部長

 ・「管理職になった自分として、後輩たちを育てていく時なのかなと感じています。それぞれがやりたいことをストレスなくやれるように、何かできることをやりたい。この組織のために、地域のために、裏方としての仕事をまっとうしていきたいです。」

③平野拓也(44)

 ・京都・株式会社地域法人無茶々園専務

 ・「無茶々園としての栽培マニュアルをまとめていきたい。きっちりした栽培技術を生産者団体として打ち立てることで、生産者の経営や栽培リスクが改善され“不利”な産地でも産地として生き続けることができる根拠のようなものになると思うのです。産地と一緒に歩んでいく企業だからこそ、やるべきこと、やるべき転換を模索していきたいですね。」「柑橘の栽培もやっていきたいです。近所に空いた畑ができたタイミングでレモン畑から始めました。」

④高瀬英明(42)

 ・鬼北町・株式会社地域法人無茶々園事業部部長

 ・「青果はもう少し高く設定し、加工品にも付加価値をつけられるような構造にしていく必要があります。時代と実情に見合った“ものさし”を持たなければいけません。」「(デザインとは)駐車場のラインのような“整理整頓”できるツールだと考えています。プロダクトのデザインだけではなく、作業や、仕事の流れ、産業自体とかを整理するためのツールがデザインだと考えます。」「そして、田舎とか都会とかの二元論もできるだけ排除したいと思っています。全部のバイアスを取り除いたうえで、売れるものを作る。その要素としてもデザインが必要だと考えます。」

⑤細島 毅(50)

 ・埼玉県・株式会社地域法人無茶々園専務

 ・「新たに“ベトナム事業”を任せられました。今は、ベトナムで栽培したコショウとカカオ豆を輸入して販売しています。ベトナムで海外に通用するような加工品まで作れるようになれば、ベトナムに落ちるお金が多くなります。彼らが作ったものを安定した価格で買って、日本で販売する仕組みを整えていくことで事業を発展させていきたいですね。いま、このベトナム事業にとてもやりがいを感じています。」

⑥宇都宮広(62)

 ・吉田町・株式会社地域法人無茶々園常務、国際コラボ事業協同組合管理責任者

 ・海外から技能実習生を受け入れ、産地へ派遣するというミッションをしている彼は、「今の受け入れ規模を10倍以上に広げていく必要がある」と言う。「無茶々園の働き方の一つの提案として、たとえば、金土日は無茶々園の仕事を休みにする代わり、畑の仕事をする。そうすれば、耕作放棄地への対策にもなりますよね。」「この会社だったら自由になんでもできるじゃないか」という彼は「ここで働いて良かったと思うのはな、お百姓さんと一緒に酒を飲めることやね。」とインタビューを結んだという。いいね、また一緒に飲みたいね。

⑦宇都宮幸博(46)

 ・俵津・地域協同組合無茶々園理事長、農事組合法人無茶々園代表理事

 ・とびきり明るくて、とびきりエネルギッシュな彼。いるだけでそこに希望の渦が動き出す。「ここの子たちが“故郷に戻りたい”と思ったとき、迷わず戻れるように「ここで生きていけるよ」というのを伝えたい。」「自然とともにある暮らしが、ここで生きていく一番の特権。この楽しさ、豊かさをたくさんの人に知ってほしい。消費者をはじめ積極的に交流していきたい。空き家をリフォームして都会の人を呼び込んで、産地体験したり、無茶々園の職員にはダイビングのインストラクターの免許をとってもらって、海と山の体験ができるようにしたり。そうやって明浜のファンをつくっていきたいですね。」

⑧川越瑛介(31)

 ・狩浜・株式会社地域法人無茶々園業務管理部

 ・選果場の責任者の彼は野村町の畜産農家の女性と結婚し、週の半分を畜産農家として働いている半農半Xのリアルな実践者。体が心配だが、じつにユニークな生き方をしている。「ぼくみたいな働き方が増えるとおもしろいですよね。」と平然と言い放っている。とんでもない若者が出て来た!

⑨大津清次(57)

 ・狩浜・株式会社地域法人無茶々園代表取締役

 ・大津くんのことは一言で言えない。「大津は40年間、創始者の想いと構想をひたむきに泥臭く実現してきた。」と取材者のハタノ氏は書いているが、その通りだ。大津くんがいなければ今の無茶々園はない。組織者としても人間としても、彼の存在はじつに大きい。ここに書ききれないので、ぜひページを開いて読んでください。

⑩藤森美佳(44)

 ・岩手県一関市・株式会社地域法人無茶々園

 ・藤森さんは、無茶々園で、狩江で、じつに楽しそうに働いている。暮らしている。それだけで、無茶々園という職場が、究極の職場像を作り上げていることが理解できる。読んでいて、こちらまでほのぼのしてくる。広い奥行きを感じさせる語り口はとても魅力的。ぜひ彼女の語りを、楽しんでください。

⑪宇都宮司(33)

 ・狩浜・農事組合法人無茶々園副理事長

 ・「どんなリーダーをめざしていますか?」という取材者の問いに「ちょっと突き抜けた人になりたいですよね。」と答える彼には驚かされる。まさに突き抜けている。幸博君の後は彼が担うのだろう。

 無茶々園の「あした」が楽しみになってきました。彼らが拓く「未来」にワクワクです!

 さて、次に登場するのは、誰でしょうか!

                      (2022・9・6)

 

 

よもやま話を―

 遅まきながら、残暑お見舞い申し上げます。

 「立秋」ははるか前に過ぎ、「処暑」も過ぎた今頃になんですが、いやあ今年も暑かった、いや未明の雨で少し涼しくは感じる今日ですが、まだまだ猛暑は続きそうです。今年は去年より暑いぜよ、とみんなが言います。地球、どうなっているんでしょうか。

 一方で、3年前の西日本豪雨のような雨が降る地域が、だんだん北上しているような気がします。今年の東北地方は大変です。

 この分ではミカン栽培できる北限地も上がるかもしれんな、とつぶやいていたら凡平くんが「もうすでに佐渡では100トンもみかんがとれてるらしいよ」と教えてくれました。

 この暑さ、後期高齢者突入まじかの老体にはこたえます。8月は午前中だけの山仕事、という日が多かった。皆様もどうかお体にはじゅうぶんご留意ください。

 「じじばばスーパー演芸会」の展開のその後のことです。

 わたしが「ミニ・じじばば、にしたら」と提案した話は前に書きましたが、いざ「実行委員会」をひらいてみたら、なんのなんのみんなものすごくやる気です!元の計画通りの「本大会」にしよう、ということになってしまいました!なんということでしょう!(10月9日実施決定)。

 じっとガマン、の3年間にみんなもうウンザリしている。「ウィズ・コロナ」をやらなければ老人クラブの活動も暮らしそのものも一歩も前に進まない、みんなそのことを痛切に感じるようになってきているのが伝わってきます。

 早速、3年前に出演をOKしてくれたみんなに「再出演」のお願い状を出しました。「うきな&はまゆう」の市川夫妻も「全面的に協力・支援する」と言って、8月の全金曜日・9月の全土曜日、すべて飲み物代500円のみでカラオケ代無料!という大サービスをして下さっています。午後7時~10時です。みなさん!是非顔を出してみてください!(昼も火・木・土は通常営業していますので、こちらは上記の対象外ですが、練習に通ってみてはいかがでしょうか。)

 それでも、やっぱり「コロナ」が心配。感染爆発はいっこうにピークを打ちません。コロナには季節性要因があって、昨年の例では東京オリンピックパラリンピック時にピーク、衆議院選挙の頃には底打つ状態でした。オミクロンBA.5に入れ替わった今回の第7波、そうなるかどうかは未知数ですが、そこに期待するしかありません。

 このような大きな大会は今日決めて明日やる、というわけにはいきません。出演者個々にはやはり2ヶ月くらいの準備期間は必要です。とにかく準備だけはしておいていただこう、という柔軟な構えをわたしたちはしています。10月になっても感染が衰えないなら、1か月延ばすとか来年にするとかして、とにかく今の役員の任期中にはやりたい、という考えでのぞんでいるところです。

 公民館に「喫茶店を!」という話。

 酒井公民館主事に訊いてみました。その話は公民館も審議委員も従来から持っていて、やりたい、ということでした。できるなら、「まちおこし協力隊」として来てくれる者にまかせたいのだが、と酒井くん。

 とてもいい話だと思います。経営が軌道に乗り、ここに定住してくれるようになってくれることを期待します。

 公民館に人が集まる施策を考えなければなりません。老人クラブもそのために微力を尽くそうと、永山会長は言っております。

 ※❤❤ 現在、俵津スマイルが「地域任用職員」を募集中です!俵津地区地域づくり活動センターの仕事です。雇用期間は令和5年4月1日から令和6年3月31日まで。給与は185万円(ボーナス有)。喫茶店やりたい人、申し込んでみてはいかがでしょう!1年間公民館でしっかりと働きながら、どんな店にするか、どうしたら経営が成り立つ店に出来るか、じっくりと考えてみてはいかがでしょう!俵津地区住民と仲良くなっておくことも成功の基とおもいます。公民館に問い合わせてください!

 以前、「恋人岬ができるんだって?!」というタイトルで根崎開発について書いたことがありましたが、あの話どうなっているんだろう?

 山下重政くんに訊いてみました。県立宇和海自然公園の一部になっているのでまかりならん、ということでストップがかかったままで進展がない、ということでした。これおかしいですね、最初は認めてくれていたんでは?何はともあれ、お役人のすることはよくわかりません。

 わたしは、俵津スマイルの「開発」くらいでは「県立公園」は破壊されないとおもいます。「魚つき林」としての機能も傷まないとおもいます。むしろ、地域の人たちがそこをまちづくり拠点として維持しようとすることで活かされるとおもうのです。50年後、この県立公園を囲む地域が無人に近い状態になることが予想される中では、こういう活動こそ、県は積極的に支援しなければならないのではないでしょうか。固い頭を柔らかくしてください。自分の頭でしっかりと考えて、地域とそこで生きる人たちの活動を守ってください。

 わが家の大浦のミカン園からボラ小屋の浜辺を望むと、なんだかわたしたちの子供の頃より砂の量が増えてるような気がします。浜辺の面積が広がっているように感じるのです。子供たちはじめ俵津のみんなが集う海水浴場としてとてもいい場所なんだがなあ、と思います。自然公園もいいですが、そこに住む地域の住民が豊かに暮らせる場所づくりこそ行政のすべきことじゃないでしょうか。

 それから、重政くんが言うには、人が行かなくなって、カキウチもしなくなったので怪我する心配もある・・。カキウチはもちろんアサリなどの貝ほり、アオサやヒジキ取り、さまざまなことをして海とともに暮らしを楽しんだ昔のことがなつかしく思い出されました。

 百姓仲間のAくんと話していたとき、Aくんが言いました。

 「俵津ー宇和線の道路は、むかし下(ふもと)から見上げると、等高線上に3本の道路があって、一番道路、二番道路 、三番道路と呼んでいた(いまの若い子はこの呼び方さえ知らないだろうな)。県道改修工事が終わってその道路はいま5番道路まであるようになった。この五番にそれぞれ「なぎさ(渚)1号」「なぎさ2号」・・というように名前を付けて、さらに祇園町まで何メートル、文楽会館まで何メートル、ボラ小屋まで何メートル、というように案内板を設置したらどうか」。

 いやあ、こんなおもしろい奇抜なこと考えるヤツがいるんですねえ。いいね!いいね!の連発です。でも、彼はさらにつづけるんです。

「でも、地域の集落協定がやった花壇づくりにさえクレームをつけ、何十枚もの申請書を出せという県を相手に、面倒なことはやりたくないなあ・・」

 なんだかシンミリしてしまいました。

 松山の玉井葵さんの『ぐうたら通信』から引かせていただきます(No.262/2022.08.01)。

・「県内の県立高校を、5年後までに、現在の55から44に再編するのだという。人口減少など、理由に頷けない訳ではない。が、沈滞していく現実をそのまま反映していくだけで良いのかと、疑問は残る。現実を跳ね返す、別の視点はありえないのか。知恵がほしい、新しい展望がほしい。」

・「参院選の結果を見て強く感じたのは、「この国の国民は、未来への希望を持てなくなっている」と言うことだ。「何かが変わる」「未来は明るい」と思えなくなった。私達の時代は、「明日は良くなる」と何となく変化を求めていた。幻想だったというのは易しい。しかし‥‥‥。」

 「統一教会問題」が深刻です。

 安倍晋三元首相の「国葬」も、多くの国民の反対の中で強行されようとしています。これらのニュースに接するたびに暗い気持ちになります。

 わたしは、「国葬」に反対です。なぜなら、法的根拠がないからです。日本は法治国家です。法によらないことはしてはいけない。ましてや(国権の最高機関の)国会の議決によらず閣議決定のみで決めてしまうやり方を到底許すことはできません。それ以外に理由はないのですが、今回の場合は、安倍氏があまりにも統一教会とズブズブの関係だったということも付け加えざるを得ません。人間の評価は人さまざまであるにしても、これほど問題のある人の国葬は深い思慮がいります。

 政府はいますぐ「国会」を開いてください。これだけ問題が山積している世の中、国民の生活が危機的情況にある中、国会議員が渾身の議論をやる以外に何があるというのでしょうか。国会議員諸氏よ!しっかりと仕事をしていただきたい!!

 あわせて、参院選後のたった三日間の臨時国会さえ中継しないNHK、先週の「日曜討論」をやらなかったNHK。「統一教会問題」を最初からとりあげて追及・報道しなかったNHK朝日新聞に、わたしは深く絶望しています。ここまで落ちたかと・・・。NHKにお金(受信料)を払いたくないという人の気持ちがわかるようになってきました。朝日の購読者が激減しているというのも理由がわかるようになってきました。シャンとした日本人、まだまだたくさん存在している、生きている!ドッコイ!!

                     (2022・8・25)

 

 

農の巨星★山下惣一さん逝く

 先日、新聞の一面下コラムで山下惣一さんが亡くなったことを知った(朝日、「天声人語」、2022・7・15)。ネットで調べてみると、7月10日午後6時50分肺がんのため死去、享年86歳、とある。合掌。

 「コラム」の全文を掲げる。

 

 農作業を終え、家族が寝静まった後、太宰治ドストエフスキーを読み、村と農に思いをめぐらせる。きのう葬儀が営まれた農民作家山下惣一さんはそんな時間を愛した▶「普通の言葉であれだけ深いことを語る百姓はいませんでした」。山下さんと半世紀にわたって農を論じ合ってきた「農と自然の研究所」代表、宇根豊さん(72)は話す。山下さんは佐賀県唐津市出身。中学卒業後、父に反発し、2回も家出を試みる。それでも農家を継ぎ、村の近代化を夢見た。減反政策に応じ、ミカン栽培に乗り出すが、生産過剰で暴落する。「国の政策を信じた自分が愚かだった。百姓失格」と記した。▶「農の問題は近代化では解決しない、近代化されないものだけが未来に残ると山下さんは気づいた」。そう宇根さんは話す。日本農業の成長産業化が叫ばれる昨今だが、「日本農業などというものはない」というのが山下さんの持論だった。あるのは目の前の田畑、山、家族、村。そこには近代化や市場経済と本質的になじまない価値がある、と。▶直木賞候補とされた小説『減反神社』は政策に翻弄される農家を描く。「あちこちの村に一筋縄ではいかない、したたかで理屈っぽい百姓を繁殖させるのが僕の夢」(『北の農民、南の農民』)とも記した▶取材した場所は福岡県糸島市にある宇根さんの田んぼのあぜ。青々とした水田をトンボが舞い、道端ではカナヘビがじっと動かない。「田んぼの思想家」をめぐる思い出話は、尽きなかった。

 

 山下さん、ほんとうにエライ人だったなあ。

 山下さんは、日本中を駆け巡った。講演した。百姓や消費者と語り合った。農政をはじめさまざまなことに喜怒哀楽をあらわした。そして、書いた。書いて書いて書き抜いた。

 俵津にも二度「講演」に来てもらった。一度目は、山下さんと親しくされていた当時宇和青果組合長だった幸渕文雄さんに交渉をお願いして快諾を得て新田集会所で。わたしたち新田こせがれ会が中心になって招いたのだ。(松山空港まで山下さんを迎えに行ったのは宇都宮凡平くんだったな。)。二度目は明浜農協が招聘して共選場で。

 山下さんは、世界60カ国以上の国々の「農業」を見て回った。(すごいことだ。なんという行動力だろう)。世界を見て、日本農業の行く末、あるべき姿をさぐるためだ。

 もちろん、ロシアの「ダーチャ」も見に行っている。こんな感想を書かれている。「もし、ダーチャと出会わなかったらロシアを知らないまま、誤解したままで私は人生を終えるところだった。農業蔑視のこの国で生涯一百姓として生きて来た人間として、私はダーチャを知ったことで目からウロコが落ちたよ。」「へえー。私は唸ったね。こんな暮らしなら永遠に続く。まさしくパーマカルチャーだ。自然界の生命力、生産力をうまく活用して、その恵みによって命をつないでいく。うーむ。これがダーチャか!」「ロシアは軍拡競争ではアメリカに後れをとったかもしれないが、食料競争においては先を行っているのだ。」「私も小農として生きる自信が深まった。ありがとうダーチャ!」(『農の明日へ』創森社、2021)。 

 山下さんはまた、悪逆非道な(主権国家・独立国家にあるまじき)日本の「農政」にも激しい怒りをぶつけた。

 1980年代のバブルの頃、洪水のごとくに工業製品を輸出した日本に対してクレームつけたアメリカ政府を慮って激しい「農業バッシング」をはじめた日本政府を相手取って闘って書いた「前川リポート」批判・『いま、米について』(講談社文庫)は痛快だった。見事だった。わたしは唸った。これは歴史に残る(残すべき)記念碑的作品だ。

 山下さんは、わたしたち農民の真の代弁者だったと思う。

 わたしたちの嘆きや悲しみ怒り、くらしの喜び、農の楽しさ・生きがい、などなどすべてを書きつくしていただいた。物言う百姓のまさしくチャンピオンだった。ありがとう!山下惣一さん!

 晩年の山下さんは、農民作家の域を超えて思想家・文明論者になっていたと思う。その最初の到達点が『身土不二の探求』(創森社、1998)だろう。

 「(時代は)文明の大転換期を迎えている。先が見えないときは原点回帰である。元に戻って一から考え直すことだ。そのときに、人類の歴史とともに続き、なおこれからも続くであろう自然と農業の不易の関係に学ぶことがたいせつである。」

 「未来を切り拓くヒントは、未来にあるのではなく、過去数千年にわたる人類の歴史の中にこそあるのではないだろうか。振り返れば未来である。」

                     (2022・8・13)