虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

老人会長の嘆き・・・!

 今日は、俵津老人クラブの「総会」の日でした。待ちに待ったこの日でしたが、今年もまたにっくき「コロナ」のために出来ませんでした。通常なら、わたしも公民館の舞台に立って酔いに任せてヘタな歌をうたっているはずでしたが(!)・・・。

 今日は、役員会のメンバーが総出で、会員への「弁当配り」をしました。散り始めた桜ではありますが、まだ十分楽しめますので、この弁当をもって個別にでも花見に出かけてほしい―せめてものわたしたちの願いでした。(むかし、4月3日は「俵津の花見の日」でした。地区全体の農休日でもありました。)

 老人クラブ最大のイベントができない辛さ・やるせなさ、それはわたしたち役員の共通の思いではありますが、一番それを感じているのはやはり会長でしょう。「総会資料」冒頭にこんなことを綴っておられます。お読みください。(ハートマークと太字はわたし)。

     ※             ※            ※ 

 野福峠の桜が満開です。会員の皆様にはますます御健勝のこととお慶び申し上げます。

 私が会長を引き受けて3年になりますが、コロナウイルスによって、1度も総会が開かれておりません。先日の役員会で総会をどうするか話し合いました。公民館大ホールでの飲食が禁止されていること。飲食なしでは出席をする会員が少なくなること。会員の健康には換えられないこと。等で今年も総会を中止し、資料と料理の配布で総会に替えることになりました。これで総会が連続3回失われることになります。コロナで已む得ない事とはいえ申し訳ないと思っています。皆様のご理解をお願いいたします。

 昔、田休み、祝言、葬式、秋祭り、法事等で親類、近所、友人が集い自家製の料理で「お客」が開かれていました。一家の主婦にとっては大変な骨折りでしたが、老若男女が料理を作りながらを深める機会でもありました。特に招待客の綺麗に盛られた膳より、手伝い方の料理は鉢に盛られ、賑々しいおしゃべりと一緒にとても旨かったことを覚えています。

 老人クラブにとって総会は1年に1度の「お客」です。221名の会員の「お客」です。亡くなられた方々へのご冥福の黙祷、新入会員の歓迎、事業報告、会計報告を審議、そのあと懇親会(お客)です。来賓の方々との話や会員同士のおしゃべり、コロナによってビデオ通話、SNS、テレワークの技術が進みコミュニケーションに事欠かないにしても、身近なリアルな会話ほど通じ合い、心豊かにするものはないと思います。コロナの今だからこそ人とのスキンシップ的な会話が必要です。

 今年度老人会として取り組みたいこと。役員会未了解ですが

①総会の続き

②老人のための演芸会

③1日遠足

④健康維持の活動(ゲートボール、クロッケー、歩く会ほか)

アジサイの植え付け

 皆様方のご協力をお願いいたします。

                  俵津老人クラブ会長  永山福重

 

      ※            ※           ※

 人一倍深く考える方です。さまざま考えたことを、自分の任期中にやれないことに対する苦衷がにじみ出ている文章だと思います。

 「コロナ」よ、去れ!と声を大にして言いたく思います。老人というのは、言わば時間と勝負しているところがある生き物です。1年1年弱っていく、体力・気力が衰えていく、培った技も錆びていく、美貌・かんばせも・・・その他あれやこれやも・・。

 「ウィズ・コロナ」が、どうしても必要となりました。一説ではこのコロナ、まだ3年はつづく、らしい・・・。どう、日常を取り戻したらいいのか。どう、「コロナ」の間をぬって活動していけばいいのか。ある覚悟のようなものも求められるかもしれませんが、みんなで真剣に考える時期が来た、と思います。

                        (2022・4・3)

 

 

「俵津スポーツ村」村長夫妻という存在

 市川和子先生の訃報に接しました(「広報 せいよ」4月号の「おくやみ」欄)。享年93歳。

 先生は、わたしが俵津小学校2年生の時の担任でした。わたしはいたずらしてはよく先生に叱られていました。はるかな昔の懐かしい話です。

 先生と、先に亡くなられた夫・市川綱太郎さんは、わたしたちにとって忘れられない存在です。わたしたちが立ち上げた「俵津スポーツ村」の村長夫妻として、俵津のスポーツ・文化の振興・発展に大きく貢献していただきました。夫唱婦随=婦唱夫随のおしどり夫婦は、その見事な惚れ惚れするようなコンビネーションプレーで、わたしたちを包み込んで賦活していただきました。

 現在の公民館=老人福祉センターができた昭和60年前後頃の話です。公民館主事は田中清一くんでした。その頃の社会教育のテーマ(俵津まちづくりのテーマでもありましたが)の一つに、「軽スポーツの普及」のステージアップがありました。わたしたちは何度も何度も話し合って、「俵津スポーツ村」を立ち上げることにしたのです。そこで問題になったのは「村長」を誰にやっていただくかということでした。子どもから年寄りにまで慕われる人でなくてはなりません。

 わたしたちが白羽の矢を立てたのが、市川綱太郎さんでした。綱太郎さんは、ご自分のこととして、毎月20日の交通安全の日には農協前の交差点に立って、子どもたちの安全登校を見守っておられました。また、スポーツの面でもお仲間と「百走会(ひゃくそうかい)」をつくり、「百まで元気に走ろう」と健康増進活動をされていました。「元旦走ろう会」なども実行されていました。

 わたしたちのお願いに、綱太郎さんはすこし悩まれたようですが、和子先生の「お父さん、せっかく若い人たちが言って下さるのだから、やりましょう!」の声で、引き受けると言って下さいました。お仲間の佐藤丈郎先生や山下豊一さんなどを引き入れてくださり、スタッフが続々と集まり陣容が整いました。

 田中主事の八面六臂の活躍もあって、実にさまざまの「軽スポーツ」の体験・講習が行われました。が、最終的には当面「レクバレー(レクレーション・バレー)」と「クロッケー」の二つに絞って普及を目指そう!ということになりました。

 それからのことは皆さんご存じの通りです。

 レクバレーもクロッケーも週二日練習会が持たれ、たくさんの方が参加していただきました。季節ごとに開いた「レクバレー大会」には、毎回15チーム以上の参加があり、会場の体育館は熱気でムンムン、快いフィーバー感が充満していました。(いやあ、楽しかったですねえ。人生に充実感がありましたねえ。)

 その大会の後の市川邸で催される「反省会」には、30人ほどの実行委員が集まり、三間ぶち抜きの大広間でまことに盛大な宴会が催されました。市川夫妻のお人柄で何の遠慮もいらない空間は実に楽しい楽園でした。

 市川夫妻は、スポーツ村のロゴ入りのTシャツやタオルまで作られて、わたしたちに配っていただきました。

 市川夫妻の、スポーツ村にそそぐ、かたむける、愛と献身は、わたしたちの想像を超える深いものがありました。

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 その活動で評価を得た「俵津スポーツ村」と「市川綱太郎」さんは、県の「優良団体・グループ・グループリーダー表彰」を受けました。平成6年度には「俵津スポーツ村」が、同7年度には「市川綱太郎」さんが、「県公連会長賞」を受賞しました。

 「スポーツ村」は今もつづいています。レクバレーは宇都宮道有会長の下で(コロナ禍で休止中ですが)、 クロッケーは酒井千昔会長のもとで(こちらはスポーツ村の名称は冠されていませんが)。

 わたしは今、言葉の本当の意味でのパトロン、つまり芸術家や団体の支援者という意味でのパトロン的存在の重要性を強く感じています。「まちづくり」には、そういう方々が必要なのです。パトロンという言葉で、誰しもが思い浮かべるのは、イタリア・ルネサンスを振興させたメディチ家でしょうが、まさに市川夫妻はわが俵津の文化・スポーツ・人々の健康の面で多大な貢献をされました。

 まちづくりの支援者(パトロン)の必要な要件をあげてみますと、

・「まちづくり」に理解と協力心があること

・自らも実践されていること

・広いこころと愛される人柄をもっていること

・経済力をもっていること

などでしょうか。市川夫妻はそのすべてを持っておられました。

 わたしたち当時の若者は、その下でほんとうに自由でのびのびと活動できたのです。誰にでもできることではないだけに、「新しいまちづくりの時代」の支援者(パトロン)が、市川夫妻につづいて、現れてほしい、と思います。

                      (2022・3・26)

 

 

 

 

 

 

NO WAR

 ロシアが、ウクライナ侵略戦争を始めました。もう三週間になります。この暴挙に強く抗議します。ロシアは直ちに戦闘を止め、軍隊を引き揚げよ。

 わたしは、21世紀は人類が「戦争」を廃棄する世紀だと思っています。二度と再び「ヒトラー」と「スターリン」を出産してはいけないと覚悟する世紀だと思っています。が、その道は絶望的に遠いことを痛感させられます。

 この侵略戦争、ロシアは当初2~3日でウクライナを制圧するつもりでいたようですが、ウクライナ国民の必死の抵抗が続けられています。

 早速、西田孝志くんが、ブログ「私の映画案内」で、その膨大な映画アーカイブの中から『赤い闇 スターリンの冷たい大地』を取り上げて、ウクライナの人々の抵抗の根底にあるものを開示してくれています。「20世紀にウクライナが味わった悲しみと悲劇を考えると、ロシアの要求を受け入れて、自己防衛の権利を手放すことなどありえないと思う」と。ぜひ、右の「リンク」から入って読んでいただきたいと思います。

 なお、西田くんには、この戦争を機にメディアで話題にされているウクライナ映画『winter on fire ウクライナ・自由への闘い』『チェルノブイリ』『アトランティス』『リフレクション』なども、できたらとりあげて欲しいと思います。わたしは全く見る機会がないのでぜひともお願いしたい。黒澤明スピルバーグの『夢』も何かを示唆しているとか聞きましたが。

 何とかこの戦争をやめさせる手立てのようなもの=希望はないのでしょうか。

● 渦中にあるウクライナの人々が発信するSNSの情報によって、世界中の人々が、残虐非道な戦争の実態を瞬時に把握できていることに、わたしは希望を見出します。世界中に「反戦」の大きなうねりが生じています。これはかつてなかったことです。インターネットという文明の利器が、戦争を止めることに資することになるかもしれません。

● ロシアの民衆の中から、「NO WAR」の動きが現れていることにも一縷の望みを抱きます。これが、さらなる大きなうねりとなり、ロシア国家を、プーチンを、ロシア軍兵士を動かすことになることを祈ります。

 ロシアの年寄りたちの中には、「もう決してソ連時代にはもどりたくない」という人達が多いとも聞きます。それは世界の民衆にとってもそうでしょう。ソルジェニーツィン(1918-2008)が白日の下にさらしたスターリンによる『収容所群島』(全六巻、木村浩訳、新潮文庫)に戻りたいと思うものなど、この世にはいないはずです。

● 「アメリカ」そしてバイデンの存在感が低下しています。フランスのマクロンも、トルコやイスラエルの大統領もプーチンを説得することはできませんでした。今、プーチンに影響を与えることができるのは、中国の習近平だけだといわれています。だとしたら、習近平には一日でも早くロシアへ赴き、プーチンを説得してほしいものです。

 事態は急を要します。ザポリージャ原発や南ウクライナ原発への攻撃が懸念され、化学兵器サリンマスタード・ガスなど)、核までもの使用が懸念されています。第三次世界大戦も危惧されています。

 もう一人、おりました。わが日本の安倍(晋三)氏です。プーチンと27回も会っていて、「ウラジーミル」「シンゾ―」と呼び合っている仲とか。プーチンに対して、「ウラジーミル、君と僕は同じ未来(ゴール)を見ている!そのゴールに向かって、駆けて駆けて駆けぬこうではないか!」と(かつての会談で)よびかけたという名うての強者です。安倍氏も、直ちにモスクワへ飛ぶべきでしょう。

 ノルウェー・ノーベル委員会の皆さんも、「ノーベル平和賞」を、この二人に、直ちに用意して下さい。

● わたしたちも、インターネット(SNS)で、「声」をあげたいものです。No WarでもStop warでもPutin Go Homeでも何でもいい。世界の片隅に生きていても、声を世界に届けることができるようになったということは、本当に素晴らしいことです。

 わたしは、ロシアの文豪トルストイの『イワンのばか』がとても好きです(かの宮沢賢治もこの作品を愛していたということです)。そこには、「ロシア」の生きるべき道が説かれているように思います。『トルストイ民話集 イワンのばか 他八篇』(中村白葉訳、岩波文庫)から、いくつかあげてみます。

● 『イワンのばかとそのふたりの兄弟 (軍人のセミョーンと、ほてい腹のタラースと、唖の妹マラーニャと、老悪魔と、三人の小悪魔についての話』には、最後にこんなくだりがあります。

「イワンは、今でもまだ生きていて、多くの人々はその国へ押しかけてくる。ふたりの兄たちも彼のところへ来て、彼に養ってもらっている。だれかが来て、「どうかわたくしどもを養って下さい」と言えば、彼は「ああよしよし!」と言う。「いくらでもいなさるがいい―わしのところにはなんでもどっさりあるんだから」ただ、この国にはひとつの習慣がある―手にたこのできている人は、食卓につく資格があるが、手にたこのないものは、人の残りものを食わなければならない。」

 そうなんです!ロシアは、「イワンの王国」をつくればいいのです!

 プーチンは「足るを知ればいい」のです。「去る者は追わず、来る者は拒まず」の精神でことを運べばいいのです。他国の領土に手を出すことなど考えなくていいのです。

● 『人にはどれほどの土地がいるか』では、人は自分の遺骸を埋めることができる六尺(三アルシン)の土地があればいい、と言っています。あれほどの広大で豊かな国土がありながら、他国の土地をせせることなどどうして必要なのでしょうか。

 トルストイは、「人間の欲望が、いかに限りのないものであるか。そして、それが人間にとってどんなに恐るべきものであるか」を知り尽くしたうえで、この思想を民話にしたのです。

● 『作男エメリヤンとから太鼓』、これがまたいいのです。終りの方にこうあります。

「エメリヤンは、太鼓を持ったまま宮殿を出て、それをたたいた。彼がそれをたたくと、王さまの軍隊が全部、エメリヤンのそばへ集まって来た。そしてエメリヤンに敬礼して、彼の与える命令を待っている。王さまは窓から自分の軍隊に向かって、エメリヤンについて行ってはならんぞと叫びはじめた。が、兵隊たちは王さまのいうことをきかないで、みんなエメリヤンのあとについて歩いて行く。」

「エメリヤンは、太鼓をたたきながら河のそばへ来た。兵隊たちもそのあとについて来た。エメリヤンは河のそばで太鼓をたたきこわし、こなごなに砕くと、それを河へ投げ込んだ。と、兵隊はのこらず逃げ散ってしまった。エメリヤンは、女房をつれてわが家へ帰った。その時いらい、王さまも、彼を苦しめることをやめられた。で、彼は万事幸福に、都合よく、安穏な生活を送るようになった。」

 「から太鼓」は何の比喩でしょう。解説者は「権力の虚しさ」といいます。エメリヤンが打ち壊したものは確かにそうでしょう。でも打ち鳴らした太鼓の方は、現代ではSNS上で世界の民衆が叩くもの、虚しいかもしれないが、上げざるを得ない「NO  WAR」の声、だと言ってはいけないでしょうか。ロシアの人々よ、兵士たちよ、そしてプーチンよ!その高らかに鳴るから太鼓の音を聞け!そして、ウクライナから去れ!

 かつてトルストイとその文学は、日本人の憧れでした。現代によみがえってほしい人物です。

◆ 

 わたしたちの青春時代は、ロシア民謡を聞いたり歌ったりするのが、一種のブームでした。いい歌がたくさんあります。「ヴォルガの舟歌」「ともしび」「黒い瞳」「コロブチカ」「カチューシャ」「ステンカラージン」「ポーリュシカ・ポーレ」「トロイカ」「赤いサラファン」・・・。懐かしいですね。また、素直な気持ちで、聞いたり歌ったりできる時代にもどしてほしいものです。

 もう一つ、わたしが「ロシア、いいな」と思えるものに、「ダーチャ」(家庭菜園つき別荘)があります。わたしが願う「国民皆農」にもっとも近づいているのはロシアではないかとさえ思うほどです。ロシア国家統計局のデータによれば、国内3400万世帯の8割がそこで食料の大半を自給しているというのです。ジャガイモなどはロシアの生産量の9割以上をダーチャで賄っているということです。賢い指導者さえいれば、ロシアはしあわせな「イワンの国」になれるのです。国民1億5000万人が力を合わせてそういう国をつくってほしいものです。それは十分世界の「希望」になります。

                       (2022・3・15)

 

空き家と廃園は、「コモン」に

 「俵津を“永遠”にするために」を、つづけましょう。

 

 とてもいいことが、昨年から今年にかけて、ありました。

 わが家がミカンをつくらせていただいている農地を、二人の地主さんから、いただいたのです。こんな嬉しいこと、ありがたいこと、素晴らしいことが、あるでしょうか!わが家の一同は、驚きと感激に浸っております。

 そして、わたしは、思ったのです。深く考えさせられたのです。瀕死の「俵津」を救う解決策の重大なヒントをいただいたのです。

 そうか、このお二人の地主さんのような温かいご行為を、みんながしていただければ、俵津は蘇るかもしれない、と。(お二人には失礼な論述になるかもしれませんがお許しください。)

 現在、「空き家問題」や「廃園(荒廃園)対策」は、「まちづくり」の阻害要因として、わたしたちを悩ませ続けておりますが、これを、所有者の方が、無償で提供していただけたら、と思うのです。僭越でおこがましいことだとは、重々分かっておりますが、虫のよすぎる話だということもよくわかっておりますが、これらを俵津民の「コモン」(共有地≒社会的共通資本)にしていただくのです。「好きにしていいよ」と言っていただくのです。

 (固定資産税・贈与税・登記料などの問題、維持管理費などの問題は今回は捨象させてください。)

 もう使い物にならない廃屋は、市の補助制度などを利用して積極的に解体していただき、そのかかった費用に少し上乗せしたくらいの価格で、更地となった土地を、希望者に売っていただく。まだ使える空き家は、所有権は保持したままで、無償か低価格で譲っていただく。とりあえずは、そんな感じでもいいと思います。

 このシステムを、認めてくださった方の家には(たとえば俵津スマイルがつくった)「マーク立札」をたて、住民が一目でわかるようにし、利用促進を図るようにしてはどうでしょう。

 ミカン山の廃園(耕作放棄地)は、もうこれは、無償にしていただきたいですね。土地所有権は放棄しないでも構いませんが。これも、公民館へ行けば、誰のどの園が利用可能か(趣旨に賛同して提供してもらっているか)が一目でわかるようにしていただいたらいいですね。そしてこれは非農家(西予市民・愛媛県民・全国民も対象に)にも開放していただきたいものです。

 「人に貸したら、もう取られたもんと一緒や。ほやけん、わしゃ人には絶対貸さん」という方はおります。勿論わたしはその人の気持ち、わかります。でも、そこを越えなければ、この俵津は立ちいかない時代がもうとっくに来ております。勝負の分かれ目は、ここだと思います。 

 内田樹さんが『コモンの再生』(文藝春秋、2020)の中で、「逆ホームステッド法」を作ったらどうかと言っています。

 

 今、地方では「コモンの再生」が始まっているように思えます。高齢化、過疎化している土地ではもう土地や建物を私有財産としては維持しにくくなっているからです。無住の家なのだけれど私有財産なので手を出すことができない。そういう廃屋が建ち並んでいる。人が住まない家というのは、防犯上も防災上も公衆衛生上も非常に問題なのですけれど、所有者がわからない、連絡がつかないということになると自治体も勝手には処分できない。

 そこで僕からの提案なんですけれど、「地方創生」を本気でやるつもりなら、いっそ「逆ホームステッド法」を作ったらどうかと思います。一定期間誰からも所有権の申し立てがない無住の土地家屋は公有とする。そして、今度はそこに住んで5年間生業を営んだ人に無償に近い値段で払い下げる。

 土地って、本来私有すべきものじゃないと僕は思います。誰かが一定期間管理責任を負うのはいいけれど、土地は絶対に私物ではない。

 

 「ホームステッド法」(アメリカ)については、こんな説明をされています。

 

 西部開拓に必要な移民労働力を集めるために、国有地に5年間定住して耕作すれば、64ヘクタールを無償で手に入れることができるというのがホームステッド法です。この法律は1840年代から部分的に施行されました。この法律に惹かれてヨーロッパから大量の移民が流れ込みました。本国では小作人でも、アメリカでは、一つ土地で5年間働けば自営農になれるんですから。そして、この施策が成功して、ヨーロッパから何百万という移民が新大陸に流れ込み、その労働力によって西部開拓が一気に進みました。

 「逆ホームステッド法」、賛成です!

 そのくらいやらなければ、もう地方消滅は救えない。わたしの案は、5年間なんてもう待っていられないから直ちに、しかも法律によってではなく、土地建物の所有者(地主・地権者)の善意で、というものですが・・・。これが俵津でやれれば、俵津は一挙にこの分野での“先進地”になれます。

 余談ですが、昔、WOWOW だったかNHKBSだったかで見たアメリカ映画を思い出しました。タイトルも監督の名前も俳優の名前もまったくわかりませんが、1シーンだけおぼえている映画です。あの映画は、ひょっとして「ホームステッド法」時代のアメリカを描いたものかもしれないと今にして思いました。

 ボストンマラソンのスタート前の風景を思い出させるシーンがあって、そこに何千何万、ひょっとしたら何十万のヨーロッパからの移住希望者と思しき人々が芋の子を洗うようにしています。どの州かはわかりませんが、自分の好きな土地を州政府がやるというのです。人々の顔はどの顔もどの顔も輝いています。号砲一発、人々はあらかじめ見当をつけていた自分の土地になるであろう場所目指して猛ダッシュします。主人公のヒーロー&ヒロインの二人も手に手を取って懸命に駆けます、駆けます、駆けます・・・。

 (西田孝志くん、なんという映画かわかりませんか?教えてください。)

 

 「天晴農園」の夢が叶ったようです。ゲストハウスを建てるために設けたクラウドファンディング、目標額をクリアしたようです。わたしまで嬉しくなりました。大勢の「ゲスト」が俵津を訪れてくれるようになるといいですね。一民間のグループがこのような企画・構想力を持ち、実現力を有していることに、あらためて驚きます。感激します。

 空き家や廃園がわたしの言うようになれば、こうしたウエーブはさらに拡大していくことでしょう。有り余る土地や建物を持つ農協などは、率先してその利用権を、こうした若者たちに与えていただきたいものです。農協の活路はそうした方向にしかないとわたしは思っています。

 最近、近所の廃屋になって久しい家が解体されました。いつ瓦が落ちてくるか、いつ倒壊して道路がふさがれるか、と心配されていた家でした。むかし、近所の子供たちがよく集まって遊んだ思い出深い家でもありました。この十年くらいは狸の住処になっていました。

 200坪はあろうかという(家屋敷としては)広大な更地が現れました。一抹の寂しさはありますが、俵津の新たな“希望”のようなものをも感じさせる光景です。

                     (2022・2・19)

 

 

 

 

 

 

 

俵津を、「永遠」にするために

 大好きな高知出身の歌手・三山ひろしに新曲がでました。『花恋歌~はなれんか~』(作詞・かず翼、作曲・弦哲也、編曲・伊戸のりお)。軽快で明るいミラクル・ボイス炸裂のライト演歌です。みかん山で剪定をしながら練習してます。

♪ (1番出だし)「惚れたあなたに 注がれる酒は/熱い情けの 味がする」~

♪ (3番出だし)「苦労背負いの 人生坂を/ふたり寄り添い 上ります」~

 わたしたちは「人生坂を 下ります」ですが。でもまあ下り坂でも、上り坂を登っているときには見えなかった景色が見えて、それなりにいいもんです。

 ところで、話は変わりますが、(寒い冬のせいもあり、コロナの影響もあるでしょうが)俵津から人影が見えなくなりましたねえ。かつて殷賑を極めた大浦の祇園町も、八千代座(映画館)を中心にした脇の繁華街(!)も、すっかり無人の通りになってしまいました。「50年後には、俵津から人がいなくなる」と言った人がおりましたが、あながち戯れとも思えなくなりました・・。

 日本の人口も、2008年の12800万人をピークに減少局面にあります。(内田樹さんのブログの記事によれば)厚労省の2100年(今から80年後)の試算では、高位推計で6800万人、中位推計で4800万人、低位推計で3800万人。「たぶんこのくらいで落ち着くだろうという中位推計で考えれば、22世紀のはじめには5000万人を切っている。今から80年間で7600万人減る。年間90万人ペースだ。」。高齢化率でも、2065年で38・4%(3人に1人が65歳以上)。

 増田寛也編著『地方消滅 東京一極集中が招く人口急減』(中公新書 2014)によると、2040年の西予市の人口推計は23358人(若年女性人口変化率-61・4%、同人口1238人)。2021年12月末現在の西予市の人口は35876人。

          ※       ※       ※

 これらから想像をめぐらせば、俵津の未来は絶望的、でしょう。

 「明浜町における人口等に関するもので、一番古い記録として残っている俵津浦地蔵院縁記」によると、今から1200年ほど前の宝亀2年(771)俵津浦の戸数は10戸だったといいますから、推定で40人くらいだったと『明浜町誌』は言っています。

 50年後、あるいは今世紀末には、また、そこから俵津は始めなおさなくてはならない時代になるのでしょうか。

 (俵津の人口がゼロになることはないと思います。この美しい里を愛する人間は必ずいて、ささやかでもほそぼそとでも、愉快に暮らしていくことでしょう。)

 この事態を食い止める「なすすべ」は・・、おそらく・・、ないでしょう・・・。

 わたしたちにできるのは、現状に少しだけ抗うこと、だけでしょう。斧をふりかざす蟷螂のように挑戦することだけでしょう。

 それを、すこしだけ、書いてみます。(スケッチだけです)。

1・意識革命

 まず、わたしたち一人ひとりの「こころがまえ」(思い直し)みたいなものが必要のように思います。

● 人の足を、引っ張らない。

● 出る杭を、打たない。

● 噂話・悪口に明け暮れない。

● ひとが入ってきやすい、住んでみたくなる、明るい開放的な精神風土をつくる。

● 1日10分、俵津のことを考える習慣をつくる。

● かつてあった「ゆい」の精神をとりもどす。

● 「コモン」へ思いを致す。

2・決め手は、自治センターの専従員

 間もなく、公民館が「自治センター」になります。そこには新たに「まちづくりの専従者」がおかれることになります。若い優秀な方を、俵津全住民が三顧の礼を払ってでもさがし迎えること、これが大切だと思います。

  あえてもう一つ言えば、市議会議員をもう一人俵津から出し、「三人のまちづくり専従者体制」をつくりだすことです。

3・「俵津まちづくり」のポイント

● 山

● 海

● 桜

 この三つを活かして、暮らしを成り立たせ、快適に過ごせる暮らし方を、みんなが考える。住みたくなる魅力的な町を創る。

4・先祖・死者と共に 

 わたしたちは、ご先祖様や亡くなられた方たちの力も借りなければなりません。

 柳田国男は『先祖の話』の中で、こんな日本人古来の霊魂観・死生観を日本の民俗伝承をもとに抽出して結論しているそうです。

 「人は死ねば子や孫たちの供養や祀りをうけてやがて祖霊へと昇華し、故郷の村里をのぞむ山の高みに宿って子や孫たちの家の繁盛を見守り、盆や正月など時をかぎってはその家に招かれて食事をともにし交流しあう存在となる。生と死の二つの世界の往来は比較的自由であり、季節を定めて去来する正月の神や田の神なども実はみんな子や孫の幸福を願う祖霊であった。」(新谷尚紀氏の同書解説、ちくま文庫全集13)

 わたしはこの考え方、とても好きです。ふるさとの発展を願うご先祖様たちと交流する道を探らねばなりません。

5・基金

 「まちづくり」には、お金が必要です。農協と郵便局に口座をつくり、基金を募りませんか。俵津住民、俵津出身者、俵津と縁をもってくださっている方たち、さまざまな方たちからお志を賜りましょう。

6・国政の変革

 人口の減少はもう止めることはできないでしょう。だとしたら、できることは、東京一極集中政策をやめ、国民が日本列島全域に分散して住む、ということしかありません。首都直下地震南海トラフ地震、ウイルス感染症などの被害を最小化するためにも、今すぐの政策転換が必要な時代になりました。これは政党政派に関係なくやらなくてはいけないことです。

 声を上げなければ。

 

※ 俵津地区以外の読者の皆さんは、「俵津」を自分の地区名にして、自分の町の話として考えてみてください。

                     (2022・2・7)

西村仁さん追悼文集  8

          仁ちゃん早過ぎるぞ

            岡山・金光  藤井(旧姓宮田)喜代秀

 

 西村仁氏の死は、令和三年十二月十七日であった。七十六歳である。亡くなった翌日、私は、寒くなったから、身体に気を付けてと言うつもりで電話して、彼の妻初美さんから前日の死を知らされた。数日前二回程電話して病状を窺っていたが、容態は分からず、二回目の電話では、体を起こして電話に出ているということで多少の安心を得ていた。しかし三回目の電話で知ったのは、彼の急な逝去のことである。葬儀は十二月二十日であった。

 その日は、例年ならば支障日であったが、繰り合わせを得て、葬儀に参列できたことが、せめてもの慰みであった。彼の生前の働きと、人を大切にしてきた姿の表れとして、同級生たちの多くが手伝い、参列していた。また、その頃はコロナの感染拡張が収まり、「家族葬」という身内だけの葬儀にならず、立派な葬儀が出来たことも、仁ちゃん(ひとっちゃん)の人柄のなし得るところと感激した。葬儀で掲げられた写真は、夏服姿で、若々しくバイタリティに富んでいて、まだまだ頑張るぞと思わせる姿であった。

 仁ちゃんは、「みかん農家」の将来に夢を馳せ、若いころに「農業実習生」としてアメリカカリフォルニアで果樹栽培を学んだ。そして後進の育成を願い、「海外派遣協会」を組織し、一人年間一万円の賛助金を募り、その基金で若者をアメリカに送った。その手腕と取り組みの見事さには感心させられ、仁ちゃんのリーダー的資質の面目躍如たるものを知った。私も岡山からではあるが、思いに賛同し、賛助金に応じた。

 仁ちゃんと私(宮田)の関係は、多くは「卓球」「宇和校への山歩きでの登校」「俵津青年団」ではあるが、熱い思いの二人の関係は、中高年になってからも続いた。岡山からの帰郷時には、二人して飲んで地域活性化への夢を語り、その取り組みへの思いを述べあった。

 思い出すままに今少し思い出に触れてみよう。先ず「俵津青年団」である。青年団では、彼が団長で、私が新聞発行などを受け持ち、仲間と共に楽しいひと時を過ごした。我々は当時二十代の若者であったが、仁ちゃんを筆頭に町(地域)を動かす熱意に燃えていて、深夜まで議論をぶつけあった。

 「宇和校への山歩き登校」では、俵津側の小道を登り、バス道に出て、時には宇和行のトラックに乗せてもらうこともあった。砂埃の中、「乗せちゃんないや」と叫んで、その車に乗せてもらう面白さも味わった。帰りは「いつもの寺」に集まり、ピン球野球に興じ、仲間が揃って帰り、野福峠のトンネルの中で「高校三年生」の歌を歌ったりした。

 卓球の取り持つ縁では、時には遅くまで練習して、暗い山道を二人で帰った。また、卒業間際に、二人してそれぞれの彼女と思しき人を呼び出し、「好きだ」との思いを伝えようとしたバカな思い出もある。

 仁ちゃんの豪快さ、どのような状況下にあっても、悩みのない男としての発揮どころを示した事件として、「いりこ買収による検挙事件」が思い出される。(内容が正確か否かは定かでないが容赦願いたい)。聞くところによると、警察がどこからか情報を入手し、山からその買収(袋入りのいりこではあるが)状態を眺め、数人の若者を選挙買収の容疑で捕まえたという事件である。

若者頭の彼西村仁は、警察?に留置され、取り調べに合いながら、警察官の調書に漢字が違うとか、裁判の護送中、暑いので途中キャンディを買えとせがんだりして、容疑者としての深刻さは微塵も見えず、その事態を楽しんでいるかのような様子に、その話を聞く時に、私は大笑いしながらもほとほと感心させられたのである。おまけに、宇和警察から、何かしらの協力を求めて、俵津に行くとの知らせがあった折、「来たら海の中にどばしこむぞ」と言ったとか。彼の豪快さを物語るものとして、私の心の中に深く刻みこまれている。

 私も岡山では、大きな声でハハハハハと笑うので、「黄門様」とか、「竜馬先生」とか呼ばれたりしているが、仁ちゃんの豪快さと胆力にはとても及ばない。

 人は、生きる中で、内面にある性質・性格を隠し切れるものではない。その点で仁ちゃんは、豪快でもあり、面倒見も良く、人柄・生き方にその姿が現れている。その中で私が彼の長所と見る点は、何よりも仁ちゃんの正直で人懐っこいところと常に仲間と共にある点である。地域活性化の夢を熱く語り、ニコっと笑うと歯が覗き人なつっこさが現れる。又羊羹をかじりながら焼酎を飲み、アルコールがある程度入ると、議論の最中でも大の字になり寝る・・・・。憎まれることのない、慕わしい彼の姿である。

 思い出は尽きない。かけがえのない友の早すぎる死が、残念で惜しまれるが、私としては、仁ちゃんと語り合った思い出を胸に、年を重ねながらも仁ちゃんの分まで生きて、「地域社会の活性化」に取組んで行きたいと願っている。

仁ちゃん、ちゃんと見守ってくれよ!!。

                       (2022・2・3) 

※ 原文は、縦書きです。

 

● morino-shimafukurouから

 藤井喜代秀さんから送られてきた「追悼文」の封書の中には、わたしへの手紙も入っておりました。これがわたしたち「まちづくり」を思うものにとって、とてもありがたく心強くなるものなので、ここに併せて掲載させていただくこととしました。藤井さんには心より感謝申しあげます。

 

随分ご無沙汰していますが、、過日は元気なお姿に接し、嬉しく思いました。

私は岡山での生活に追われ、俵津へ帰る機会が少なくなり、また帰ったとしても、ゆっくりする暇もなく帰光しますので、貴兄との交わりもなくなり申し訳ないことです。

お互い年齢を重ねましたが、貴兄はいつまでも若さを失わず、覇気に満ちている様子に、『虹の里へ』の御著を思い、さすがと思わされました。

私は、「俵津青年団」時代の思いそのままに、「まちづくり」に関わり、地域社会への貢献をテーマに熱を失わず生きています。

どの地方でも同様のように、当地も衰退の方向でアクセクしている現状ですが、私としては、出来るところを見つけ、先人たちの積み重ねた成果を改めて掘り起こすという手法で、「まちづくり」を企画し、実行しています。

貴兄の、明浜という地方への問題意識、危機意識にはとても及ばぬことですが、私のモットーとしては、「深い川は淀みなく流れる」というところに、常に問題意識を重ね合わせています。

ところで、西村仁氏の死去に伴う一文をということでしたが、葬儀のあの日宇之吉氏の行為で、黒田新作氏宅で一杯飲んで酔い、肝心の貴兄からの依頼趣旨文を失ったようです。

お話の内容からは、「追悼の一文」と思われ、別紙のような一文を送付することにしました。ご趣旨から外れているようならば、お許し下さい。

また、事実関係において、間違いがあれば正して頂きたく思います。

お互い、文を書くことで、自分の思いを現すということに導かれ、多少なりとも、表現者として生きることが出来る?ということは恵まれたことだと思わされます。私は今、金光教内の全国信徒会誌「あいよかけよ」という冊子の「川柳」の選者を務めていますが、あつかましくも素人です。

なお、貴兄には、関係のない内容でどうかとは思いますが、私が退職後に編集刊行した、『人物点描』、同封いたしますので、お目どうし頂ければ嬉しく思います。

奥様、ご関係の皆様にも、よろしくお伝え頂ければ幸甚に存じます。

    令和四年二月一日                   藤井喜代秀拝

 

 

 

西村仁さん追悼文集  7

       ひとっちゃん(西村 仁)の追悼文

                      岡崎 駒次郎

 

 西村 仁(仁ちゃん)のことは、以前から、岡崎憲一郎より「仁ちゃんは最近体調が悪く、みんなで見舞に行こう」という話があったが、コロナウイルスのこともあるので大勢で押しかけるよりは少人数でということにして、私は個別で見舞することにした。

 仁ちゃんと最後に出会ったのは、2021年、昨年の10月11日だった。

彼の自宅に立ち寄って 声をかけたが返事がなく、仕方がないので帰ろうとしてしていたが、ひょっとして病院でも行っているのかなと思い携帯電話で呼び出したところ話ができて、「今何処にいるのかな?」と聞いたところ「家にいる」と返事があったので早速臥せっている寝室に入り見舞うことにした。

 体調が悪いと聞いていたのであるが、意外と元気な様子であったので、しんどい体とは思いながら仁ちゃんのペースで2時間余り話し合った。開口一番言った事が「駒ちゃんに会いたかったんよ」と言われて大変うれしく思った。

 久しぶりという事もあって、近況やら,昔懐かしい話題と時間のたつのも忘れて話題に尽きなかった。

 私と仁ちゃんの出合いは、時のたつのは早いもので約半世紀になります。

 当時は20代の若さ溢れる時期。その頃のことは、現在の私の頭もボケが始まって記憶も薄れがちの今日であるが、当時俵津青年団長に西村仁、狩江青年団長に原田義徳、高山青年団長に岡崎駒次郎がリーダーとして各単位団で活動していたと思う。明浜町連合青年団を立ち上げようと結成準備会、いわゆる統一実行委員会を立ち上げ、市川嘉國が会長になり活動していたころにさかのぼる年代である。

 その目的の行動の一つに町内駅伝を実施しようではないかという意見があって(その発案は宇都宮氏康ではなかったかな?)町内を駅伝競走大会で団員一丸となって実施しようと、その大会は成功裏に、その後明浜町連合青年団を結成することができた。

 その駅伝大会は今年令和4年で49回に現在まで続いてきた。当初は小学児童から一般団体まで幅広く参加者があったのに、残念なことに今年はなんと3チームのみの大会であったと聞いて少子高齢化の影響はここまで来たかと大変残念に感じている。

 若さ溢れる年頃から今や後期高齢者となった我が身の現在であるが、先に述べたように新しものが好きだった仁ちゃんとの話の中で話題となった情熱的な行動の一つを紹介すると、私から「今愛媛県の方ではミカンの新品種を奨励することの試験栽培的に県下指定農家に新品種が導入されていることをある報道で聞いたよ」と言ったところ、即、西宇和のミカン農家の友人にTEL連絡して穂木の確保ができないか聞いていた。ここでも情報を耳にすると即行動を起こすのが仁ちゃんでした。アメリカ帰りの異色人的な仁ちゃん、考え方も太っ腹なリーダーであった。

 2018年9月16日、私がミカンの摘果中に虫食い果樹に登って作業中に転落、右足大腿骨骨折をして、金属で接続55日間入院生活を余儀なくした時も、わざわざ見舞に来てもらったことがありますが、仁ちゃんの性格は私が思うに、豪放磊落、義理人情に厚く、世話好き、そして、新しものが好き、旅行が好き、その上人脈が広く友人が多いことですね。

 昨年10月に自宅で出会ってからその後、その内に々と思いながら、貧乏暇なしの生活で、12月19日もの言わぬ仁ちゃんの通夜の晩まで会うことがかなわず、誠に申し訳なく思っている。

 後期高齢者になった自分自身、健康でいられることの喜びを思い、これまでの大勢の仲間が一人減り、二人減りこの年齢になると皆さん同様に感ずることであろうと思うが、健康であることの大切さ、生きていける仕事ができることの喜びを感じながら、今思うこと、仁ちゃんは俵津の山でミカンを中心とした夢の楽園を目指して、新品種に取り組んで、大勢の仲間を引き連れて活躍していることと思いをはせながら・・・・・・・・

 旅立った仁ちゃんに心からの冥福を祈ります。安からんことを・・・・・・。

 

                  2022年(令和4年1月)

 

                     (2022・1・24)