虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

公民館に集まろう!—わたしの公民館使用法・案(その2)

 このところ、このブログは俵津老人クラブの広報紙的になっておりますが、7月2日にも活動がありました。大山神社天満神社の清掃作業です。毎月1日に行っているのですが、その日が雨だったので順延されてのことです。わたしは大山神社班。行ってみると、1カ月前の作業から境内の草も伸びておらず、落ち葉もそれほどないので、しかも一緒に作業してくれる神社総代の面々(高岡春司くんや宇都宮幸博くんたち)が、「ぼくたちがやっておくから、老人会の人たちはいいですよ」と言ってくれたのでやれやれ。配られたペットボトルのお茶を飲んでから散会しました。30分ほどのティーパーティー(!)の話題は、コロナワクチン接種と後期高齢者の車の免許更新時の認知症検査対策・・・でした!

 さあ、前回の話を続けましょう。公民館(=老人福祉センターとそのエリア)をどう使ったら人が集まるようになるのか。公民館を俵津住民の楽園にするにはどうしたらよいのか、その話です。

《1階》

 正面玄関から入って行きましょう!いい匂いがしてきます。

・入って右側の部屋、保育所寄りの昔の公民館事務所だったところ。ここを茶店にしましょう(軽食も出しましょう)。コミュニティカフェです。委託業者を募集しましょう。俵津移住者の中から希望する人に仕事を斡旋する形にしてもいい。町外から俵津に仕事に来ている人も結構いるので、成り立つのではないでしょうか。カフェのある公民館なんて素敵じゃありませんか。

 ※ コミュニティカフェとは、人と人とを結ぶ地域社会の場や居場所の総称。別名サロン、地域の茶の間、まちの縁側。

ロビー。ここにはテレビを置きましょう。新聞を3紙、週刊誌を10誌くらい置きませんか。

図書室。まちづくりの本や俵津の人たち(出身者も含む)が書いた本を充実させましょう。読書会を開きましょう。宇和や宇和島や松山には講師をやってくれるひとたちが大勢いると思います。そのようなナビゲーターに導かれて「源氏物語」や「平家物語」、「近松門左衛門」から「村上春樹」までいろんな本を読みたいですね。

 また、「マンガ」を大量に置きましょう!「鬼滅の刃」や「ドカベン」・・・もう時代はマンガなしではうごきません。わたしたちも、「赤胴鈴之助」や「鉄腕アトム」で育った世代です。青少年が大勢公民館に集うようになるでしょう。

 さらに、本の「寄贈」を呼びかけましょう!受け付けましょう!本は宝の山です。

機能訓練室。60歳から利用できるそうですから、ここを老人の健康道場にしましょう。器機も充実させましょう。ジムやフィットネスクラブ感覚で使ってもらえるといいですね!

和室。道路側の最奥室。映画の部屋にしましょう!市販されている一番大きなテレビを購入し(プロジェクタ―でもよい)、邦画から洋画までDVDを大量に揃えましょう。

・残りの和室。将棋や囲碁、生け花にお茶、着付け教室・・・エトセトラ。大学生の夏季合宿を誘致しましょう。彼らとの話し合いの席も持ちましょう。

・調理室。

・会議室。

・事務室。

・陽だまりの部屋。ここは、老人クラブの部屋にしてもいいかもしれませんね。

・廊下。「365日の文化祭」展示スペースに。俵津には、俳句・短歌・写真・絵画・陶芸・盆栽などの趣味を持った方々が沢山います。それらの人たちに年間を通して発表展示の場所を提供し、さらに腕を磨いていただきましょう。個展も大いにやっていただきましょう。これは、廊下といわず公民館の全室、全スペースを対象にしましょう。

 階段を上って2階へ行きましょう!

《2階》

● まずは大ホール

ロックコンサート、やってください。高岡健司くん、いかがですか!地元はもちろん町外の仲間も集めて派手なコンサートやってください!!燃え狂いましょう!

・「個人リサイタル」も、大いにやってください!

「じじばばスーパー演芸会」。俵津老人クラブがやります。間もなくです!

俵津ふるさとまつり」保育所園児から老人までの、俵津全住民の演芸会です。中山友哉くん・片岡聖矢くん、若い人たち、どうです?!挑戦していただけませんか!かつて新田の若者は「新田ふるさとまつり」というのをやりました!あの時のメンバーもノウハウを提供できるでしょうから。あの時の熱狂は今だに新田の空に木霊しています。

・劇団をつくって、「演劇発表会」をやりましょう。

講演会。俵津出身者の中には、全国的にご活躍されている方が大勢おられます。その方たちにいろいろご講演していただくことはできないでしょうか。菅豊彦さん(哲学)、西森利数さん(生物学)、三好作一郎さん(歯学)、三好永作さん(物理学)、古谷敬三さん(医学)、横浜副市長だった山下さん(すみませんお名前忘れました)、・・・。

 それから、地方の再生や農業の再生に理論的・実践的にご活躍されている方々もぜひ来ていただきたいものです。藻谷浩介さん・藤原辰史さん・山下惣一さん・小松理虔さん・藤原浩さん・内田樹さん・・・。

映画会。せっかく映写室があるのですから大スクリーンで見たいものです。みんなにアンケート(リクエスト)して、月1回くらい映画会やりたいですね。大阪から西田孝志くんを呼んで解説してもらってもおもしろいですね。

マルシェ。(外の駐車場も使ってやりましょう)

・不用品交換会

・会費制結婚式。時代が一回りしました。こんなことやってもいい時代がまた来たのではないでしょうか。地元にもお金が落ちます。

・むかし、永山福重さんや宇都宮英利さん(故人)たちが少林寺拳法の練習会を開いていました。あんなのもいいですね。

まちづくりシンポジウムを開きましょう!

●大ホール手前の部屋

 ここは俵津スマイル事務所にしましょう!まちづくりの専従者が付くなら、やはり事務所は必要です。強力なセンター・指令室(?!)を作りましょう。

●会議室。企業説明会、就職面接・相談会、各種セミナーなど、俵津で生きて行くひとたちが、情報を得、スキルを磨く場所にしましょう。

《駐車場広場》

ポン豆実演販売。文化祭の時などにやりませんか。むかし、新田に谷本さんという方がいて、ポン豆の器械を持っていて営業しておりました。新田のこどもたちは、米を袋に入れて持って行き、順番を待ってやってもらっていました。ドーンというあの音、今でも心の奥に鳴り響いています。なつかしく、いいものです。(あられと一緒にアメで固めてにぎったあのお菓子も美味しくて忘れられません)。

かまどをつくりませんか!木を燃やして羽釜で炊いたご飯は、チョー美味しいです!鍋底の焦げ飯がこれまた何とも言えずウマい!小屋にして、みんなに利用していただきましょう。(こどもへの教育効果もきっとあるでしょう)。

演台。ロンドンのハイドパークには演説台があって、誰でもがそこで演説することができるそうです。俵津人もこれから、全国・全世界に向かって自己主張していかなければいけない時代を迎えるかもしれません。人材を養うためにも、いかがでしょうか?!

《門田さんの畑》

・ここを借りましょう!芝生を植えて、木陰になるようにセンスのいい木も植えて、いくつもテーブル・イスを置いて、みんながくつろげる場所をつくりましょう。公民館の中だけでなく外も利用・使用しましょう。きっと、素敵な空間になると思います!!

・カブトムシが集まることで有名なシマトネリコの木を植えましょう!子供が集まり、親が来て、じいちゃんばあちゃんも来るでしょう!(保育所の運動場にも!)。

《スマイル小屋》

 ここは現在、ソフトリーグの各チームや無茶々園俵津支部や各グループが飲み会の場所として使っています。こういう自由に使える時間制限のないキタナイ(!)ところが必要なんです、まちづくりには。

明浜町の水道課の管理していた建物》

 ここは、青果同志会や、農業や商工業のグループ、自主的サークルなどの寄合所として使ったらどうでしょう。いろいろな団体が公民館エリアに集結していることが、俵津まちづくりに機動性をもたらします。連帯させます。活性化させます。

《周辺の空き家》

 持ち主の方は、ぜひ積極的に貸していただきたいものです。ここに意欲ある人たちが引っ越したり、シェアハウスをつくったり、店をひらいたり、芝居の稽古場にしたり・・さまざまなアイディアをだして利用したら、俵津はスゴイことになるのでは!!

 

 わたしの構想(ゆめ)は、とりあえず以上です。公民館や各種団体がこれまで通常おこなっていることは省いてあります。貧弱な私の考えを、ぜひ皆さんに補強していただくことを切望してやみません。

                          (2021・7・9)

 

公民館に集まろう!—わたしの公民館使用法・案(その1)

 6月22日、またもや老人クラブの活動がありました。公民館の庭と周辺の清掃作業です。草刈り・庭木の剪定・ごみの撤去などを行いました。和気あいあい、楽しい午前中のひと時でした。コロナ禍で集まる機会がめっきり減ったせいでしょうか、こうして集まって、みんなで汗を流すことの喜びをひとしお感じます。人恋しい、人懐かしい、そんな思いをみんなが持っているのがわかります。そして、公民館庭はみごとによみがえりました。みてください!!

 嬉しいことがありました。春ちゃんこと片岡春江さんから、わたしの前回のブログの記事へのお礼を言われたのです。あ、いいえ、どうも・・。勝手に名前出してスミマセン(でもいい話、伝えたかった。みんなに)。きっと、俵津ホームページ時代の編集仲間のマサくん(春ちゃんの孫=俵津農業のエキスパート・リーダー)に言われて見たのでしょう。赤面、ドギマギ・・いろんなことが起こります。

 ところで、あと2年ほどで、「公民館」は「自治センター」に名前を変えるそうです。詳しいことは知りませんが、次の二つのことが大きく変わる点だと聞きました。

①まちづくりの専従職員が置かれること

②公民館で営業活動ができるようになること

 わたしなどは、これは国の行政の地方切り捨て策の一環ではないかなどと勘繰ったりしていましたが、そんなことを言っても仕方ありません。前向きに行きましょう。

 老人クラブの清掃作業をしていて、思ったのです。俵津のみんな、俵津の1,000人が、もっと積極的にここ(俵津公民館)に集うことによってイスクラ(火花)が発生して、さまざまな化学変化やなにかの流動化や熟成作用がおこるのでは、と。それが、俵津の活性化に繋がって行くのではないか、と。

 「公民館に集まろう!」と、わたしが呼びかける理由は、こうです。

(1)新田集会所、大浦集会所は、今ほとんど使われなくなりました。かつては冠婚葬祭といいますか、結婚式・名付け・棟上げ・葬式等々で個人の家でもよく利用していましたが、「コロナ」の影響を除いても、使用頻度は皆無に近くなりました。少子化で「亥の子」をする区もわずかです。町民運動会の慰労会くらいでしょうか、使うのは。

 「新田ふるさとまつり」をやっていた頃は、新田集会所はまことに賑やかでした。大浦の西村仁さんなどは、大浦集会所があまりにも使われなくなったので、「集会所に喫茶店でも開こうか、それが出来なければ、コーヒーを飲みに来ないかと呼びかけて、ひとを寄せる工夫をしなくてはいけない時代になったなあ」と言っておりました。

 少子高齢化・人口減少の時代。せめて俵津公民館だけでも残そう、使おう。まず、それです。

(2)わたしが公民館へよく行っていたのは、豊田守明さんや田中清一さんが主事をしていた頃でした。その頃は、青年団員はもちろん、老人会・婦人会・若美会など実に多くの団体の会員たちも事務所へお茶を飲みに来ていました。自然と3世代の交流が出来ていたのです。

 今はそれを意識してやらなければならなくなりました。それがあれば俵津がスムーズに動くようになります。

(3)高齢化率が55%の俵津。みんなが公民館に集まることで、お互いがお互いを見合うことができるいわば予備介護とでもいったらいいのでしょうか、それが出来ます。近況を話し合ったり、一緒になにかに取り組んだりすることで脳が活性化し、認知症予防にもなるでしょう。いざという時には、若者の力も借りることができるでしょう。

(4)健康には、みんな気を遣っています。ランニングをしたりウオーキングをしたり、犬を散歩させたり・・。公民館へ歩いて毎日通うようにしたらどうでしょう!楽しい目的がある方が断然いい、と思うのです。

(5)俵津は信号さえない、何もないまちだとよく言われます。ところがドッコイ、公民館があるじゃないか!とわたしは、言いたいのです。「老人福祉センター」と一体のこの大きな(ちょうど1,000人くらいが利用するのにふさわしい規模の)建物があり、周辺には「保育所」があり、ユニークな運営をされている永井先生たちの「たんぽぽ診療所」があります。少し行けば無茶々園=百笑一輝の介護福祉施設「めぐみの里」・「海里(みさと)」があります。神様のご加護にあずかれる「大山神社」もあります。これらがうまく連携すれば「ちょっと、これは!」という福祉(しあわせという意味の)の里をつくれるんじゃないか、と思うのです。

(6)何もなければ、なんでもあるところに、公民館をするのです。

(7)これからの日本はシュリンク(縮む)する時代を迎えるといわれています。みんなが肩を寄せ合って生きて行かなければならない時代がくるかもしれません。

(8)俵津公民館を使い切れば、わたしたちは「豊かさ」を作り出せるのではないか。人間的にも「成長・成熟」を獲得できるのではないか。そんなことを思うのです。

 

 前置きが長くなりました。とにかく、俵津公民館を人が行きたいと思う魅力的な場所にしなければなりません。では、俵津公民館をどう具体的に使うのか?

 それは、次回に考えます。みなさんも一緒に考えて下さい。

                        (2021・6・27)

「あじさいロード」を・・。老人会青年団はじまる。

 夢に燃え現(うつつ)に燃えて夏椿(後藤比奈夫)

 茶寿の花見たしと思ひ百三つ(同)

 白寿まで来て未だ鳴く亀に会はず(同)

 還暦のわれ最年少草むしる(漆川 夕)

 紫陽花に染まつてしまふ立ち話(北村純一)

                —今日の「朝日俳壇」から

 6月10日午前10時から、コロナ下で延び延びになっていた俵津老人クラブ(永山福重会長、会員230人)の初役員会がありました。20人ばかりの会合ですが、コロナ対策を取って、公民館の大ホールで、窓を開け放っての開催です。

 わたしは入会3年目。永山会長から「おまえ、じじばば(スーパー演芸会)担当の役員になってくれ」と言われて、晴れて(!)役員就任(ぎょっ!)。行ってみると、ほとんど知っている人たちばかり、しかも70代が多い。西田初敏くんとわたしが最年少です。みんな元気で若い若い。これは、老人会青年団かも。

 「人生100年時代になりました。コロナに負けず、楽しく充実した老人会を、みんなでつくりましょう!」。会長のあいさつで、会は始まりました。この会長は、とてもいいですね。誠実で優しくて思いやりがあって、地域のことをしっかりと考えておられる。自分のことは後にして真っ先にみんなのことを考える。心のキャパが大きく広く深いので、みんなの話をよく聞くし、接していて安心感に包まれる。わたしは、一番ふさわしい人が会長になっているなあと思っています。いい時期に役員に巡り合えてよかったと思っています。

 去年と今年、早や二度も「コロナ」のために総会ができなくて、さらに普段の活動も思うようにできない中、今年こそはとの思いがみんなにあって、会は進行しました。

 「今年の活動」を決める話し合いの中で、脇の片岡春江さんから「あじさいを植えて、あじさいロードをつくりませんか」という提案がありました。湾岸道路の植栽可能な所にあじさいを植えて美しい俵津をつくろう、というのです!「こんな大事業を年寄りだけでやるのはとても大変なことだから、俵津全体の会議にかけて、しっかりしたプランを練ったうえで、皆で取り組んだらどうか」という意見などが出ました。結局、片岡さんたちの仲間が今年、挿し木で花を増やして、それを役員間でわけあってちゃんとしたものに育て、少しづつ植えれる場所から植えて行こう、ということになりました。よかったです。近い将来のこの季節、あじさいでいっぱいになった俵津を思い浮かべると、なんだかワクワクしてきます。

 前にもどこかに(俵津ホームページだったか)書きましたが、片岡さん(みんなは親しみと敬意を込めて、春ちゃんと呼んでおります)は、アイデアマン(いえ、ウーマン)です。産業文化祭時の「古希祝いの餅撒き」を提案して実現させたひとです。今では、その年の古希を迎えた同級生たちが必ずやる恒例の行事になって定着しています。永山会長や西村権司副会長の同級生だそうです。こういうパワーのある方がいると心強いです。

 「じじばばスーパー演芸会」も議題になりました。

 この7月に、65歳以上に二回のコロナワクチンが打ち終わるだろうことがほぼ確実になったので、みんなのこころが少しほどけてきました。明るい日の光が射し始めました。(ちなみに、わたしの接種日は、7月7日と28日です)。早ければ、11月上旬にはやれるかな。遅くても、来年中にはやれそうな?見通しが立ちそうになりました。(「コロナ」は決して油断してはならない感染症です。最後の最後までしっかりと見極めなければなりませんが。)

 わたしは、そこで、現在の出演応募状況を報告させていただきました。「カラオケが40人、芝居が12人、これは水戸黄門漫遊記・野福峠の巻で若い人たちも友情出演してくれます。その他ハモニカ演奏・ギター演奏・尺八演奏・踊り・詩吟・民謡・落語など延べ60人の方々が、その日を今か今かと待っていただいております!!」「わが俵津には、たいへんに達者で、楽しくおもしろい芸を持った方がたくさんおります。そのひとたちが最高に輝く舞台をみんなで作り上げましょう!」「みなさん!よろしくおねがいします!!」。

※ 出演募集は、今もやっております!!まだの方、ぜひお願いします!みんなで、もうひと花もふた花も三花も・・咲かそうじゃありませんか!!俵津老人クラブを、面白くしようじゃありませんか!!

 ◆

 俵津老人クラブ、とてもいい雰囲気です。

 帰りに、弁当と缶ビールがでました。これで「懇親会」がやれないのが、残念でなりません。

                        (2021・6・13)

 

 

湾岸道路を軽トラで走りながら思うこと

 湾岸道路を走るのは気持ちがいい。わたしは大浦のみかん山へ行くとき、今は葉桜となった宮崎川土手の桜道をまっすぐに下って共選場の所から、この道に出る。展望が一気に広がる。この快適な道路を行き来しながら思ったことを、記したい。

 

1♥ 俵津湾に「鯉のぼり」を泳がそう!

 ゴールデンウイークの期間中に俵津湾上に「鯉のぼり」を泳がせたら、と思った。藤本義男くんの家の向かいの山から伊井旅館の上の山に鉄塔を建て、ワイヤーを張って、みんなから寄贈を募って集まった鯉のぼりをつらくって、空に泳がせるのだ。今では鯉のぼりをあげる家は数件しかなくなったが、各家庭にはタンスの奥にしまわれて眠っている鯉のぼりが、まだ沢山あるのではなかろうか。明浜や西予市にも呼びかけて、寄贈してもらうようにもしよう。きっと、俵津の新しい名物になるだろう。人の賑わいをつくることができるだろう。

2♥ 浜に街路樹を植えよう!

 湾岸道路をつくる際に新しくできた船着き場の広場がとてもいい。旧道から50メートルも沖へ出たせいで、格好の魚釣り場になった。普段でも数人が釣りをしているのを見かけるが、休日ともなると大きなワンボックスカーでやって来た家族連れなどで20~30人になる時がある。(去年の夏だったか、俵津湾にイルカの大群がやって来た時には、もっと多い人で賑わった。)予期せぬ釣り公園・憩いの場が出来たような感じだ。

 ここにベンチなどを据え付け、街路樹を植えてさらに居心地のいい場所づくりをしたらどうだろう。というか、近くの魚市場跡地に出来た広場や、住宅地側にもできている空き地にも街路樹を植えて、この辺りを全体的にとらえて公園化・美観地区化してはどうだろう。きっと、俵津の新しい夢空間がうまれるにちがいない。

 街路樹の樹種などはみんなで考えればいい。桜の町だから桜でもいいが、落葉樹でない方がいいかもしれない。垢ぬけのしたもっと素敵な木があるかもしれない。あれがいい・これがいいとみんなで考えるプロセス自体も楽しもう。

3♥ 農協の建物を使おう!

 軽トラで走っていて「もったいないなあ」といつも思うのは、人影の消えた空き家の俵津一の大きな建物=農協だ。ここにいろいろなテナントが入ったら、俵津はもっと生き生きした町になるのになあ、と。学習塾・フィットネスクラブ・スーパー・カラオケ喫茶・司法書士事務所・鍼灸整骨院・整体・パン屋・カフェ・・・等々。

 農協は、やはりいまでも、地域おこしの中核団体の位置に屹立してあることに変わりはない。儲けばかりを考えていては、逆に衰退していくだろうと、わたしなどは思うばかりだ。

4♥ 千葉から、みかんづくりを志して、若者が移住してきたそうだ!

 俵津スマイル会長の日越三雄くん(同級生)によると、西予市のホームページの「移住サイト(地域おこし協力隊募集)」を見て、移住を希望して俵津へやって来た若者がいるそうだ。スマイルが全面的にバックアップして面倒を見ると言う。2年間ほどはヘルパー組合で研修して技術を身につけることになっていて、将来の経営園地も募集中とか。早速、新田の稲生豊次郎さんが五反田の園地を貸してやると申し出ているという話だ。希望の光が少しだが、射し始めたような気がしている。

 「俵津公民館だより」5月号でも一面トップで取り上げられているから、もうみんな知っているだろう。山下恭平くん(29歳)というそうな。家は3区の中村さんの所を借りて住んでいるとか(あの家は囲炉裏も切ってあって、都会の人には好みかもしれない。また、3区は海も近く生きて行くにはとてもいい所だ)。写真も大きく出ていてなかなか逞しそうで根性ありそうな顔をされている。「どんな困難をも乗り越えていきます」という本人の決意表明のような「あいさつ」も載っている。どうかこの俵津を気に入ってくれて定着してくれるように祈りたい。

 けれども、定着するのは、とても大変なこと。農家を始め俵津住民のあたたかい協力が必要だと思う。特に、わたしが言いたいのは、いい園地を構えてやることが大切ということだ。できたら、国道・県道・農道の上下の仕事がしやすくてまとまっている園地を提供してやりたいものだ。そこが荒廃園なら、みんなで総出で出歩して再開墾して苗木を植えてやるくらいのことをしなければとても無理だと思う。そのときは、わたしも老骨に鞭うって、草刈りくらいの手伝いをしたいと思っている。

5♥ 砂防ダムが完成した!

 3年前の西日本豪雨で破壊され、廃業のやむなきに至った農協マーケットの上、網干譲治氏宅の上に、大きな砂防ダムができた。右上には今でも痛々しくむき出しのままの崩落地が見えていて被害の大きさをものがたっているが、これでひとまずは安心だ。

 ただ、このダムの上は広大な荒廃園になっていて、しかも急傾斜地だから、視覚的には俵津の美観は著しくそがれている。ここに桜が植えられたら!・・とわたしは夢想しているが・・・。

6♥ 開発進む「ボラ小屋」が見渡せるが・・・

 湾岸道路から、スマイルが、雑木を伐ったり、桜の植樹などをしているボラ小屋・根崎が見渡せるが(なかなかスッキリしてきている。好感度の高い景観になりつつある。)、どうも、県の方から、注意というのか、わたしにはなんだかよくわからないことが入って、活動が中断されているという話を聞いた。大したことでなければいいのだが。

 わたしたちの子供時代は、まだボラ小屋の海水浴場があってそこへ降りる道も(幅は狭かったが)しっかりとあった。あの頃より幅の広いちゃんとした道がつくということだが、それが何かに(規制に)引っかかったのでもあろうか。

 俵津の湾岸はいま、確かに何かになろうとしているのだから、一日も早い解決を見てスマイルの活動が進展を見せるようになることを願いたいものだ。

7♥ 風車は俵津の風景として定まった!

 俵津の後背地、宇和・三瓶との町境の山に聳え立つ7基の白い風力発電用風車は、湾岸道路から見ると、とても美しい。もうすっかり俵津の新風景となって定着している。軽トラで走りながら、そのことを感じる。

 心配していた(佐田岬半島の風車にはあるという)低周波公害もない。むしろわたしは、唸りなどあげることのない休んでばかりの風車が心配だ。あれで、発電できるのだろうか。あれで、収益があがるのだろうか。と。でも、羽の形がはっきり見える今の風車が、わたしはとても好きだ。

8♥ あのヨットを、活かせないか!

 ひとつ忘れていた!俵津湾には素敵なヨットが一艘停泊している!これも重要な俵津の風景になっている。これがあるだけで、俵津がなんとなく引き立って見えるから不思議だ。このヨットを運用できないものだろうか。俵津まちおこしに一役買ってもらえないだろうか。

 持ち主をわたしは知らないが、俵津の誰かが運用を任せてもらって、営業していくことはできないものだろうか。「俵津湾・法花津湾巡り」「田之浜まで行く宇和海めぐり」「別府まで行くコース」などと「コース」を設定し、料金を取って運営するのだ。夢物語だろうか?!

 これは余談だが、1980年代初め頃だったか、明浜にヨットハーバーを作るという話があった。いつの間にか立ち消えにはなったが、宇和海と言うのはそれほどに魅力的な所なのに違いない。神奈川の油壷というヨットハーバーで有名な所へ行ったことがあるが、明浜も地形的には負けないが、ただ都市から遠いのだけがマイナスなのだろう。80年代はバブルだったから、こういう話もたとえ噂であれ起こったのだろう。

9♥ まちづくりの「テキスト」がいる!

 わたしは、俵津のまちづくりのためには、みんなが「共有できるヴィジョン」を導くことができる手順を教えてくれる「テキスト」がいると思う。俵津にはまちづくりの団体として「スマイル」はじめ「桜保存会」「老人会」「婦人会」「青年会」「農業後継者の会」「青果同志会」「PTA」「区長会」などがある。まちづくりのスタートのある時点まで考え方・方法を共有できるものがあったら、ムダな試行錯誤を省けるし、スムーズな進行ができる。

 最近これがいいのではないかと思えるものに出会った。枝廣淳子『好循環のまちづくり』(岩波新書、2021、税込み880円)だ。ここには、まちづくりの「ホップ」「ステップ」「ジャンプ」がやさしく書かれていてとても有意義だ。たとえば、枝廣さんは「ホップ」の章で、アイディアが出やすくなるコツとして、「理想像のありたいまち」と「現状のまち」を比べたときに、「増えてほしいもの」は何か、「減って欲しいもの」は何か、「変わらずにあってほしいもの」は何か?を考えて見たらどうか、と言っている。なるほど、これなら導入部の話し合いに好ましい結果を生み出せる。

 上に挙げた団体はぜひこの本をメンバー全員に配って、読んでもらうようにしてはどうだろうか。あるいは老人会と婦人会と区長会にその使用権が任されている「葬祭組合」の積立金(300万円の残金がある)を使って、100冊くらい買って配布するというのはどうだろう。ぜひ、検討してみてください!!

                        (2021・6・3)

 

 

 

 

君はUFOを見たか?―俵津不思議会議を!

 「UFOはほんとうにいるのでしょうか?」

 こんな質問に、「います。僕、見たから。」と単刀直入にあっけらかんと明快に答えるのは、われらが内田樹さんです!(内田さんは、1950年生まれ。合気道道場「凱風舘」主宰の武道家神戸女学院大学名誉教授、フランス文学者、思想家)。気持ちいいですねえ。だから好きなんです、この人!人生相談本『悩める人、いらっしゃい 内田樹生存戦略』(自由国民社)上の名解答です。

 答えの続きです。

これはそれしかないんですよ、答えは。「いない」って言うことはできますけど、いないことを証明するのはまず不可能です。もちろん「見た」という人に対して、「お前が見たのは幻想だ」という反論がありうるかもしれない。でも、その場合は、僕が幻想を見たことを証明してもらわないといけない。過去にさかのぼって、それを証明することはまず不可能です。

 僕は見ましたからね、東京・尾山台上空に浮かんでいました。夏の夕方の6時ぐらいでした。青空の真ん中に、白とオレンジの光でピカピカ光る、スピルバーグの映画『未知との遭遇』のマザーシップみたいなものがどおーんと浮いておりました。そういう飛行物体を見たのははじめてでしたから、ほんとうに驚きました。

 そのうちに動き出した。僕のすぐ上空にいたのが、いきなり尾山台駅上空に移動した。不思議な移動の仕方でした。加速度運動じゃないから。いきなり「ぴゅん」と移動して、また「ぴゅん」と戻ってきた。ああ、これは僕が知っている地上のいかなる物体とも違う原理で作動しているなということはわかりました。

 ちょうどそのとき、僕の前からひとりのおばさんが歩いてきました。僕は空を指さして「あれ、なんでしょう?」という問いを無言で(驚きのあまり息を吞んで・・・)向けてみました。

 でも、そのときおばさんは、自分の足下をじっと見つめて、僕からはるか遠い道ばたをいくかのように、すたすたと歩き過ぎていったのです。なるほど、人はこうやって「見たくないものを見ないで済ませる」のだなということをそのとき僕は学びました。

 次の日、新聞を隅から隅まで読みましたけれど、「世田谷区尾山台上空に謎の飛行物体」というような記事はありませんでした。あれを見たのは僕ひとりだったのか、それとも見た人はいるんだけれど、「見たけど見てない」ことにして忘れようとしているのか、それとも何人かが「変なものを見ました」と新聞社に通報したけど、相手にされなかったのか・・・。

 他人がその真偽についてどう判断しようと、この経験は僕にとっては決定的なものとなりました。いわゆる「科学主義」的な思考は僕の中では完全に失効しました。「UFOなんてあるわけないじゃないか」というような人がいったいどうしてそんな素朴にそう信じられるのか、そちらの方が僕にとっては超常現象です。この天地の間には人間の知性の及びもつかぬことがある。もちろん、それは知識としては分かっていました。でも、この夏の夕方に腹の底から実感できた。この広い宇宙の中には、人間の知性や想像力の及びもつかない領域がいくらでもあるんだなということは確信されました。だったら、きっと「気」もあるし、「霊」もあるし、「千里眼」も「未来予知」も「空中浮揚」もなんでもあるんだということがほんとうにすとんと腑に落ちたのです(そして、どうすればそのような経験とお近づきになれるのか、その実践的プログラムについて考え始めることになりました)。

 この経験が僕の合気道と哲学に与えた影響は計り知れません。あれを見ていなければ、それからあとの人生はまったく別のものになっていたかもしれない。

 世の中には、現実よりも現実的な「よくわからないもの」というのがあるんです。

                     (同書170~176頁)

 

♥■◆▲●❓❢

 いやあ、なんともオモシロイですねえ!

 こんなこと言っていいんですね。発表していいんですね。目から鱗が落ちました。安心しました。だから、わたしも言います?!実は、わたしも見たんです、UFO!

 いまから60年も前の、わたしが中学1年の冬・1月の終わりごろでした。暗くなった夕方でした。古城(ふるじょう)の上空に、内田さんが言うのと同じような白とオレンジ(いや金色といったほうがいいか)に光るものが浮いて止まっていました。当時はまだUFOという言葉はありませんでしたので、これは「空飛ぶ円盤」に違いない、とわたしはとっさに思いました。かなり長い間、それはそこにとどまっていました。やがてそれはものすごいスピードで回転を始め、俵津上空を数回旋回した後、宇和海の方角に飛び去って行きました。轟音はありません、まったくの無音でそれは動いていたのです。

 わたしが何でこんなことを覚えているかというと、学研の「中1コース」という月刊雑誌があって、その新年号に分厚い日記帳が付録として付いていて、それを几帳面にわたしは元旦からつけていたのです。日記帳自体は、わが家の改築の際に処分してしまったので今はありませんが、それがあったがために、このことを記録したのだけは覚えているのです。それがあればみなさんにもっと詳しい報告が出来たと思いますが、驚きの記憶だけは今も消えません。

 翌日、学校に行ったわたしは、誰かがこのことをいつ言うかいつ言うかと思ってじりじりしていましたが、誰もこの大発見に言い及ぶものはおりませんでした。もちろん新聞にも載ってはいませんでした。内気だったわたしは「これは言ってはいけないことなんだ」と思って、今日まで深く胸にしまってきたのでした。

 UFO見た人、わたしだけじゃないと思います。UFOだけじゃありません。さまざまな不思議現象を見た人は、この俵津にも多いと思います。『遠野物語』(柳田国男角川ソフィア文庫)や『山怪』(田中康弘、山と渓谷社)の世界は、全国にあると思います。日本の民話(昔話)も、かぐや姫や浦島太郎の物語をはじめ、さまざまな不思議な話を伝えています。野福峠やあちこちの山で、狸や狐に化かされたことのある人は、まだ生きているかもしれません。

 現代でも心霊治療家と言うんでしょうか「おがむ人」もいます。内子の施法寺の住職さん、名前は忘れましたが仁土の方。わたしのパートナーの祖父もまさしくその「おがむ人」でした。科学万能の時代でも人間の心の闇は、計り知れないほど深い。これらの方たちは、人間のさまざまな不可思議な行為と心的現象を数限りなく見てきたことでしょう。わたしがお世話になっている整体師の河野さんは「気功」をやりますが、手をかざしてもらっていると体が確実に熱くなって反応します。「気」は確実にあると思います(内田さんの言う「気」はもっとちがう広がりをもったものでしょうが)。そういう人たちは地域にとってものすごく大切な人たちだと思います。

 わたしたちの宇宙は、学校で習うような物理学の原理で動いているかもしれませんが、それとは違う法則で動く別の宇宙があってもいいのではないかとわたしは思っています。

 どうでしょう。いろんな体験をされた方が集まって、「俵津不思議会議」とでもいうようなものを開いてみては。もちろんNETを通じてでもかまいません。「俵津遠野物語」ができるかもしれません。柳田国男が展げた世界は、単に民俗学の世界にとどまりません。哲学や思想、文学や宗教、社会学歴史学などに無限の豊穣をもたらしました。

 俵津の人たちが自信と誇りを持てるようになるかもしれません。主体性をとりもどせるかもしれません。わたしは、どうしたって、狐や狸に人間が化かされていた時代の方が、人間の暮らしは豊かだったと思うのです。UFOと遭遇できる町の方が格段に面白いと思うのです。

                       (2021・5・21)

 

 

 

「馬頭観音」に、行ってきました!

 村の暮らしには安心感がある。いや、そんなはずはない。村では過疎化も高齢化もすすんでいる。グローバル化していく市場経済は村の経済活動をこわしつづける。そう考えていくと、今日の村ほど不安な社会はないはずなのに、村に暮らしていると不思議な安心感をおぼえる。

           (内山節『「里」という思想』、新潮選書)

 

■ここを訪れ、いにしえに思いを馳せる人は、結構いるのではないか 

 山笑う季節、野福峠にあるほのぼのとした癒し系のすてきな看板(小島里世さんの作だそうです)に魅かれて、シリナシの「馬頭観音」へ行ってきました。ウグイスがのどかに鳴いていました。シジュウカラの群れが、わたしを歓迎するかのようにひとしきり舞って飛び去っていきました。

 巨大な岩肌が露出するその下部に掘られた岩やしろの中に、二体の観音像が安置されています。近くに誰かが訪れたのでしょうか。柴とお賽銭がそなえられていました。わたしも跪いて手を合わせました。こころが静まります。

 ここへは俵津財産区の下刈りの際などで何回か来ていますが、一人で来てじっくり見るのは初めてです。二体の像は、左側のものが三面で憤怒の形相をしています。左上には剣でしょうか、斧でしょうか、棒でしょうか金槌のような形をしたものが彫られています。右側のものは、一面でなぜだか柔和なお顔をされています。手は、ものの本には人差し指と薬指を伸ばして馬口印(ばこういん)を結んでいると言われますが、はっきりしません。本数は8本などのものもあるとききますが、ここの像は両方とも2本です。馬頭といわれる馬の形をした冠は、長い間の風雪で削られたのか馬容は確認できませんでした。

 引き返して、入口にある市が設置した案内板を見てみます。

 西予市指定有形文化財(石像美術)

所在地 西予市明浜町俵津

指定  昭和62年10月7日

 江戸時代、俵津と宇和の村々を結ぶ主要な道として、野福峠越え、野田・伊賀上越え、根笹(ねざさ)越えの三つのルートがあった。そのうち、野福峠越えと野田・伊賀上越えの道は、現在も馬道(うまみち)と呼ばれており、年貢米、蔵米、藩政に必要な物資等を積んだ牛や馬が、俵津大浦の津出倉(つだしぐら。船に積む荷物の倉庫。4棟あった。)までの一里三十丁(約6・3㎞)の道のりを歩いた。

 この馬頭観音像は、嘉永七年(1854)、行き交う牛馬の安全祈願と供養のために建立されたものであり、台座には「寄進俵津野田」と刻まれている。また、俵津庄屋文書には、伊賀上庄屋からの「建立に協力してほしい」という依頼が伝わる。

                         西予市教育委員会

 『明浜町誌』によれば、三つのルートには山道の難所にいくつもの馬頭観音が建てられていたそうですが、現在残っているのはここだけらしいことが書かれています。ルート名も宇和からの視点で名付けられていますが、それは「宇和地方が、宇和島藩の領地であり、この地方の年貢米は、牛馬の背によって」俵津へ運び、宇和島まで海上輸送するしかなかったためと思われます。俵津側から言えば、根笹越えは新田の奥からの爪立(つめたて)ー山田線だろうと思います。町誌には「一般庶民にとっては、交通はいろいろな制限が設けられて、縁遠い存在であった」とありますが、長崎東海の日誌には宇和への診療にこの3路線を利用したことが書かれてありますので、彼の時代には庶民も頻繁に往来していたのでしょうか(東海は文久3・1863年生まれで、明治35・1902年に俵津へ来て、昭和3・1928年まで生きた)。

 ちなみに、「津出倉」ですが、これは浜田の醤油屋跡に現在も残っている二棟の、あの川を挟んだ南北に長い建物がそれに当たると、聞いたことがあります。俵津は歴史の町なんですね。

 ところで、この道を歩いていた馬に、わたしはひとつのイメージを持っています。わたしが小学生だったころ(昭和20年代末~30年代初め)に、馬はまだ俵津にいました。黒澤明の映画や西部劇に出てくるようなカッコイイ馬ではありませんでした。いかにも荷を運ぶのに相応しい足の太い大きなのろそうな感じのする馬でした。引いている人は、とても馬に情愛を感じている様子でした。馬と人と自然とが織りなす豊かな時間が流れていた俵津がかつてあったのです。

 みなさんも一度ぜひ訪れてみてください。いにしえの人々と馬たちが行き交った情景が目に浮かび、豊かな時間を過ごせること請け合いです。

※ YouTubeにも、動画がアップされています!ご覧あれ!

※ 【夢提案】 野福峠を除く二つのルート(シリナシ・野田線と爪立・山田薬師線)、今はもう草木が生い茂り、通行はできないでしょうね。これを刈払い、復活させることはできないでしょうか。復活させて、子供から年寄りまでがこぞって歩いてみることができたら・・・。そこから、何が生まれるのかはわかりませんが、おもしろいことが待っているような気がします。

 わたしが子供の頃、4月8日の花まつりの日には、祖母に連れられて山田薬師へよく行ったものでした。ニッキ水やひょうたん菓子を買ってもらえるのが、とてもうれしくて、よく覚えています。人生において、暮らしそのものの中で一生忘れない思い出をつくることも、とても大切なことだと思います。

  そして、思う人(個人・家族・グループ・会社など)は、この道に、自分(たち)の新たな「馬頭観音」像を建てたらいかがでしょうか。新しい俵津と宇和の交流街道が出来上がります。

 

■もう一つの「馬頭観音

 ところで、馬頭観音に関して、面白い話を読みましたので、書いておきます。この文章のはじめに掲げた内山節さんの本からです。

 「馬頭観音は、馬を使って荷を運んでいた時代に、事故にあって馬が死んだ場所や、馬が集まる場所に馬の安全を祈って建てられた供養塔である」のに、内山さんが住んでいる群馬県上野村の住民の一人が、「その馬頭観音の話は少し違う、と話しはじめた」そうです。

〈山の中には、時空の裂け目とでもいうべきものがいくつもある。それは、この世とあの世を結んでいる裂け目でもあり、私たちの世界と魔界、あるいは原始の世界を結んでいる裂け目である。この裂け目はだれかが命をささげなければ埋まることはない。人間たちが山で死ぬのは、きまってそういう所で、ところが人間にはこの裂け目がみえない。

 自然界の動物たちはこの裂け目がみえるから、そんなところに落ちることはないし、なかにはかつてのオオカミのように、この裂け目を利用して、異なる時空を移動していた動物もいた。そして、馬もまた、この時空の裂け目をみつけることがあった。ほうっておけば、いつかだれかが命を落とすだろう。そう考えた馬は、自らその裂け目に命を投げだし、人間の身代わりになった。馬が「事故死」するのはそういうときで、そのことに気づいた村人が、その場所に馬頭観音を建てた〉

 まるでSFのようであり、しかも悲しく切ない話です。

 内山さんのコメントは、こうです。「この解釈は私には面白かった。馬頭観音が建立されていった一般的な歴史からみれば、この解釈は異端である。しかし、たとえごく少数であれ、そう理解することによって馬頭観音に手を合わせてきた人々がいるとすれば、その人々にとっては、馬頭観音はそう解釈された世界のなかに存在してきたことになる。」「日本列島に暮らした人々の歴史が、民衆史にも、日本という国史にもなる」が、「民衆史として歴史と関係すれば、民衆史としての日本の歴史が存在」する。「一人の村人にとっては、馬頭観音が、あのような物語として存在していたように」。

 非常に深い思想が語られているような気がしますし、この様な話を一方で伝える村社会は、多面的・重層的でとても豊かであるように思えます。

※ 内山節(うちやま たかし)さんは、1950年生まれ。哲学者。1970年代に入った頃から、東京と上野村との二重生活をしているそうです。立教大学大学院で教鞭をとられていましたが、現在はNPO法人・森づくりフォーラム代表理事など。

 (それにしても、内山さんのような方に、深い思索を促すことができる上野村ってスゴイ村ですね。わが俵津はどうでしょうか。)

                        (2021・5・10)

 

 

 

 

 

 

生れてはじめて「日本国憲法」の全文を読みました。

 この歳になって、初めて日本国憲法の全文を読みました(何ということでしょう)。天気がよくて、風が薫って、ヒマだし、今日は憲法記念日でもあるし、・・ということで手に取る気になったのです。

 2001年版の『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の“付録”にあったものを、捨てずに本棚の隅に置いていたのです。開いてみると字が大きいし、すべての漢字にフリガナがついているし、難しい語句には説明もあるので、それに何よりウスいので、これならわたしでも読めるかなと思ったのです。

 でも、いまケンポ―はなんだか触れるのが“タブー”みたいになっていて、ちょっとコワイ感じもします。

◆なーんだ、憲法って、日本国民の「しあわせのつくりかた」を書いたモンだったんだ

 一読したわたしの感想は、それです。しあわせとは何かを書いた幸福論でもあるような気がするし、どうしたら幸福になれるのかの答えを高らかに告げたものでもあるような気がします。国のリーダーたち(政治家や官僚たちや)が、顔をどこに向けるべきか、どこに向いて仕事をすべきか・勤めを果たすべきかも書いている、そんなある種日本国民の“バイブル”のようなものであるな、とも思いました。

 もう天皇陛下のために死ななくていいんだよ。戦争に行かなくてもいいんだよ。戦争に行ってよその人たちを殺したり殺されたりしなくていいんだよ。徴兵制度もなくしたし、安心して自由に生きていいんだよ。青春期に死を見つめて暗く悩むこともいらないよ。

 人間には、侵すことのできない基本的人権があって、永久の権利として与えるよ、保証するよ。すべて国民は、個人として尊重され、生命・自由および幸福追求の権利が保障されるよ。そのために、三権分立地方自治などの国の制度をちゃんと作るよ。

 そんなことをしっかりと書きつけた日本国民が幸福になるための大元の基本法、それが「日本国憲法」なんだと、すんなり腑に落ちたのでした。なーんだ、このとうりにやれば、日本国民は幸せになれるじゃないか・・・。

 「前文」もいいですね。

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

 しびれます!

◆今大事なのは、99条

 今回、憲法を読んで、わたしが一番注目したのは、99条です。

第九十九条◎〔天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務〕

  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重  し擁護する義務を負ふ。

 ここに、憲法とは何か、が書かれていると思ったからです。憲法とは、権力を縛るもの、国民が権力に向かって命令するもの、です。権力の暴走を阻止するためのもの、です。憲法の最後の方になってやっと出て来ました。これは、最初に書いて欲しい!いや、日本の場合絶対1条に書くべきだ。しかももっと確かで強い言葉で。と、思いました。

 わたしたちは、どこかで憲法は法律の親玉で国民が守るべきものだと思っているような節があります。学校でも、この一番肝心なことを教えていないような気がします。今の政治を見ていると、総理大臣をはじめ政治家たちや官僚たちもまるで憲法が分かっていないような気がしてなりません。街角に貼ってある共産党のポスターにも、「憲法を守ろう」などとあります。国民に向けた街頭ポスターにこれはないと思うのですが。

 新憲法日本国憲法の歴史的成立過程を考えれば、第一章・天皇制の民主化(象徴天皇)、第二章・戦争放棄を書き込まざるを得ないことはよくわかりますが、0条にでも、前文にでも書いておいていただきたい、ぜひ、と思ったのです。

 これは、わたしの個人的感想ですが、今、「日本国憲法」を強く意志して守ろうとしているのは天皇だけのような気がしてなりません。とくに平成の天皇上皇)は、そのことに全身全霊をかけていたと思います。

◆いま憲法は、満身創痍・・・

 いま、日本国憲法は、キズだらけになっているような気がしてなりません。日本は、法治国家(民主主義の国)じゃないみたいな事態になっているような気がしてなりません。

 憲法学者までもが違憲だと言う安保法制がつくられ、共謀罪法までがつくられています。日本学術会議の6名の任命が拒否されつづけているように学問の自由は踏みにじられ、表現の自由も奪われようとしています。政権への忖度が度を越してはびこり、本来なら国民の幸福をつくることに献身・邁進しなければならない行政がゆがめられています。マスコミも委縮しきって、言論の自由など言い出す勇気さえない。自治体も憲法集会などもってのほかと、会場さえ貸さないところが増えている。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」しているのに、生活保護を受けるのさえオドオドして卑屈にならなければならない。選択的夫婦別姓制度など、いとも簡単につくれるはずなのに、やれない。政府は、「公共の福祉」のために存在するのに、“森友・加計・桜”のように私利私欲のための政治が蔓延している。・・・

 挙句の果てには、憲法を守らなければならない政府が、憲法改正まで目論んでいます。「緊急事態条項」を書き込めば、政権の恣意によっていつでも「憲法」が停止されるようになります。9条に「自衛隊」が書き込まれれば、隊員が戦死する可能性が極度に増してくるでしょう(台湾海峡がきな臭くなっています)。憲法改正のために自分たちが有利になる国民投票法の改正まで、このコロナ禍で大変な時にやろうとしているのです。

 これでは日本と日本人は「未来」へ行けない。行けるのは、いつか来た道の「過去」だけです。

「公共の福祉」の言葉説明がとてもいいので書き写しておきます。

 「社会に暮らすすべての人々が公平に受け、それゆえに皆のはたらきや配慮で大きさを増していくべき全体の幸福」

◆一つ、気になることが・・・

憲法の表紙の下に、気になる文言を見つけました。

「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」

 えっ、これだと欽定憲法じゃない?主権者の国民がつくった憲法にはならないんじゃない?と思ったのです。わたしの言うことがおかしくないとしたら、日本国民は、この憲法で、選びなおしと言うか、一回国民投票をやらなくてはいけないんじゃないでしょうか。??!!

 

 それはさておき、76年前、この憲法が国民の前に示された時、俵津の人たちはどのような反応を示したのでしょうか。受け止めたのでしょうか。尽きない興味をそそられます。でも、それを今のわたしたちに語ってくれるひとは、もう、いないでしょうね。残念です。

                       (2021・5・3)