虹の里から

地域の人たちと、「まちづくり」について意見を述べ合う、交流ブログです!

野福峠に桜を植えた人達はどんな思いで植えたのだろう?

 さあ、春だ、うたったり走ったり、とびあがったりするがいい。風野又三郎だって、もうガラスのマントをひらひらさせ大よろこびで髪をぱちゃぱちゃやりながら野はらを飛んであるきながら春が来た、春が来たをうたってゐるよ。ほんたうにもう、走ったりうたったり、飛びあがったりするがいい。ぼくたちはいまいそがしいんだよ。

               (宮沢賢治「イーハトーボ農学校の春」から)

 ●morino-shimafukurouのつぶやき

 賢治先生のような先生に勉強を習えたらいいだろうなと思います。賢治先生が教えると知識はすべて「楽しい知識」になります。「愉快な知識」になります。「悦ばしい知識」になります。宇和高校・野村高校農業科の生徒のみなさん!農業って素晴らしいですよね!農業の学問は、きっとそのようなものですよね!

 

     ※            ※            ※

 今年は桜の開花が早くて、すでに花見の季節は終わりました。残っていた花は無残にも今日の雨で散って行っています。

 野福峠に桜を植えた人たちの「気持ち」に関心があります。どんな心の“高ぶり”があって植えたのだろう?動機というか思い、です。桜を植えることで、屈指の眺望を、さらなる絶景にしようともくろんだのでしょうか。俵津を桃源郷にしよう、と夢みたのでしょうか。そういうことを書いた、当時の「野福峠桜植樹計画書」とか個人の日記とかいうものが、どこかにないでしょうか。

 俵津人のそうした謂わば主体的動機・積極的動機がわたしは欲しいのですが、植樹を促した外的要因というものは、あるにはあるように思います。一つは、日露戦争(1904~1905、明治37~38年)の戦勝記念植樹があったということです。戦争が終わった翌年から全国で植えられて行き、大正天皇即位記念、昭和天皇即位記念にも大きなエポックがあって、昭和のはじめごろまでその流れは続いたということです。野福峠に桜が植えられたのは昭和5年頃ですから、これにはかからないようにも思いますが、国民の意識の中には消えずに流れとしてあったようにも思います。ちなみに長崎東海の日誌の中にはこのことに関する記述はないようです。

 もう一つは、軍国日本が、教育勅語明治23年10月30日発布)の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の精神を涵養すべく、パッと咲いてパッと散る桜に託した潔く勇ましい死生観を植え付けた、ということが深く関与しているのかもしれないということです。学校の校庭に桜が植えられたのには確実にそれがあると思います。国学の大家、「もののあわれ」を提唱した本居宣長の歌「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」の影響も、日本人精神史には大きいでしょうね。

 でもまあ、それはそれとしておきましょう。

 野福峠の桜は、いつ誰が植えたのか?それを確定しておきましょう。『明浜町誌』にはありませんでした。やっと見つけた資料は、高岡冨士高さんの著『ふるさとの海と山ー俵津村の思い出』です。

 それによると、昭和五年に県道宇和ー俵津線が開通し、その記念に沿道に吉野桜を植えたとのこと。当時の養蚕指導員・宇都宮庄太郎氏(後南米に移住、同地で歿)が、青年団を引率して、村から一千本の桜苗を受け取って植えて行った、とあります。しかも地主の了解は得なかったといいますから、かなり強引な植樹だったようです。宇都宮氏の後を受けて指導員となったのは、中村繁太郎氏、山下吉三氏とありますからこの人たちも植樹に関係していったのでしょう。(『町誌』の年表によれば、県道の開通は昭和七年。高岡氏の記憶違いがあったのかもしれません。)

 ここには、かかわった人たちの肉声の記録はありませんが、時代は1929年(昭和4年)のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけとして起こった世界的な経済不況(恐慌)下、国内でも農村不況が深刻化しており、俵津も同様だったと思います。その中でこれだけの大植樹をやったということは、そうとうな情動・熱情が感じられてなりません。

 

 さて、時は21世紀。いままた、「俵津桜保存会」や「俵津スマイル」が、「桜」に挑んでいます。その熱い胸の内を、記録して残して欲しいものです!

                          (2021・4・4)

《追記》

 折角の機会です。高岡さんの本に、俵津人を元気にするような一節がありましたので、書き写しておきます。「俵津製糸」のことを記した章の中です。

 「ハゼが洋蠟に押されて、衰退し始める頃、養蚕がポツポツ始まり・・・・」

 「その(俵津製糸の)隣には織物工場もあり、縞織物を製造して遠く高知県や九州の各地へと販路を広げ、両々あいまって盛んな時代をつくりあげた。当村は辺鄙な農漁村であるにもかかわらず、商業的才能に富むものが多く、近隣の村より文化的水準が高かったようである。かなりの村人が、これらの反物をかついで、各地に行商し、あちこちの文化をもちかえったものと思われる。」

 高岡さんの「俵津製糸廃業後の残務整理」を詳細に記録した章は、実に見事です。わたしは圧倒されました。俵津にはこのような優れた知性がいたのですね。

 青年団というのは、わたしの経験では、だいたい15歳から25歳くらいまでの独身者が構成する団体ですから、昭和5年(1930年)で15歳というと大正4~5年生まれで、生きてたら・・いやもう生きてる人いないですよね。俵津で言うと誰だったんでしょうか?尾下正さんは、入っていたでしょうか?

 長崎東海研究会の会員間でも言い合ってたのですが、この会もう10年早く始めていたら、長崎家の人達と付き合いのあった人たちも生きていて話が聞けたのになあ、と残念がることしきりでした。

 今後も、今生きているお年寄りに何か聞いておきたいことがあったら、一日も早い方がいいです、と言っておきたいです。

 

 

 

「コロナ」に思う・・

 至る所、俵津のさくらが満開です。今日は「春の嵐」とか。雨が降っています。美しい花が散らなければいいのですが・・。

 みかんの苗木植え・草刈り・剪定などで忙しくしています。老骨に鞭は打たないことにしておりますが、“なり疲れ”で退色し弱っているみかんの葉が、日々生き生きと緑を取り戻している姿を見るにつけ、習い性となっているのか自然と体が動きます。

 

 それはさておき、「コロナ」が、またいやな感染者数上昇カーブを描き始めました。感染力が従来のものより2倍以上高いという変異株が、世界の各地で猛威を振るい始めています(跳梁跋扈していると言った方がいいかもしれません)。日本国内にもすでに侵入しているといいます。もうこれは、中村時広県知事も言っておりますが“第四波”と位置付けるべきでしょう。そうしないと、対策が後手後手になるからです。

 最近特に思うのですが、「コロナ」は「まちづくり」を壊す。「地方」を壊す。「共同体」を壊す。ただでさえ難しい局面に立たされている地方が、疲弊を加速化させる。ような気がしてなりません。経済・社会・文化・人間関係・・・。

 早い話が、俵津でも、各種団体の会議や事業ができない。地区の運動会やお祭りなどができない。「不要不急」という言葉が連発されてありますが、まさにそれこそが地域を作っているもの、地域を活き活きと成り立たせているものだったと、多くの人が気付き始めています。こういう状態が続けば、事業継承というのではないけれど、これまでに蓄積されたそのための技術や経験などが途絶えます。ますます地域の維持が困難になっていきます。

 わたしたちがやろうとしていた「じじばばスーパー演芸会」なども、演者のさらなる老齢化、体力や意欲の低下、演じる力の衰えなど様々な悪条件が積み重なって行きつつあります。

 

 東京オリンピックパラリンピック聖火リレーが始まりました。プロ野球はじめ各種スポーツのシーズンも開幕です。観光シーズンにもなりました。ゴールデンウイークもすぐそこです。Go To何とかもはじまりそうです。そして7月にはいよいよオリパラ本番。期待のワクチン接種も遅れています。正直言って、わたしは心配です。

 この国は、もう一度改めて根本的に、「コロナ」と向き合うべきではないでしょうか。もちろん経済は大事ですが、「二兎を追うもの一兎も得ず」の格言通りになりそうな予感がします。

 この一年で、やるべきことがハッキリしてきました。それを政府と国民が覚悟をもってやればいい。テレビ・新聞・ネット・週刊誌などを見て得たことを、思い出した順に書き出してみます。

➊ オリパラは即中止にする。(IOCやWHOや外国から言われるのを待つのではなく、一度くらい日本から主体的に言ってもいいのではないでしょうか)。

➋ Go Toキャンペーンはやらない。

➌ 全国民にPCR検査を実施し(もちろん無料)、陽性者を隔離する。それを妨げている厚労省(医系技官)・感染研(国立感染症研究所)・保健所の機能・役割を見直し、民間を活用する。日本製の全自動検査機が各種開発され、輸出までされている現実を見れば、それを使えば一日100万人単位の規模の検査が可能になる。毎日の感染者数発表も、分母を一定にしなければ無意味。

➍ 日本製のワクチンと薬を開発する。製薬会社・大学・研究機関等がオールジャパンで。政府は徹底的な資金援助をする。現在ファイザーなどが開発しているのがmRNAワクチンですが、医者をやってる同級生によれば、日本が開発中(研究中)のものにDNAワクチンというのがあるそうです。これは副作用がなく、管理も簡単だそうです。どうして政府はこれを実現する万全の体制をとらないのでしょうか。

➎ 日本版CDC(疾病予防管理センター)を創設する。なんでもアメリカのまねをする日本が、こういうことだけはやらない。不思議です。

➏ コロナ感染者専用医療機関を設ける。国立病院・JCHOジェイコー(独立行政法人地域医療機能推進機構)・旧国立大学病院などをそれに当て、それ以外は普通の従来通りの診療ができるようにして負担をかけないようにする。

➐ 事業所や国民に手厚い給付金を支給する。

➑ とにかく、政府に腰が据わっていない。覚悟がない。だから、国民の信頼が得られない。だから後手後手になる。結果、コロナが蔓延する。菅首相が得意な「政治家の覚悟」をもって、腰の据わった・逃げないで責任のとれる政権を作る。

➒ 信頼できる政府をつくる。10月までに必ずある「総選挙」で、政権交代を実現させる。あるいは、コロナを終息させるという単一イシューでの連合救国内閣・政権を作るという事も視野に。今度の選挙だけは国民みんな必ず投票に行く(投票率80%実現)。地方も自民党から離脱する覚悟を決める。

➓ コロナを押さえるのにある程度成功している国のやり方を謙虚に学ぶ。ニュージーランド・台湾・中国・韓国・・・。

⓫ 必要ならロックダウンも。

⓬ 医学生看護学生にも協力してもらう体制づくりを。3年生以上ならワクチン接種やPCR検査などの役割分担をしてもらっていいのでは。逼迫している・ますます逼迫していく医療体制を補うために。(オリパラをやれば、1万人の医療関係者のそれへの投入が必要になる。そんな愚かなことをしてはならない。)

⓭ 消費税を、今年と来年の2年間、ゼロにする。(➐と一緒にこれをやれば、国民の政府への信頼感が生まれ、協力しなければ!、という気が生まれて、対策は一気に進むでしょう!)

⓮ 怖いのは、複合災害。首都直下地震、南海・東南海・東海地震、富士山噴火、豪雨災害などが発生すればさらに深刻な事態に。速やかなコロナ収束に努めなければならない。コロナ対策に専念できるように、全原発の運転停止・再稼働禁止も。

⓯ コロナ対策担当大臣は、経済産業相ではなく、厚生労働相にして、優秀な人材を抜擢する。

⓰ マスコミは、ジャーナリズムの原点に返って批判精神を発揮し、恐れることなく勇気を出して、しっかりと政府批判をしなければならない。国を滅ぼさないために。

 

 まだまだあると思いますが・・。こうやって書き出していきながら、気づいたことがあります。それはこの国がこれらのうち何一つ、これまでにやってこなかったということです。あぜん・ボーゼン、・・言葉を失います。

 

 一日も早く、みんなと、ワイワイやりたいですね。うまい酒をみんなと飲みたいものです。野福峠の桜が、どこか淋しそうです。

                        (2021・3・28)

 

 

問いを立て、遊ぼう!!

人類は

もうどうしようもない老いぼれでしょうか

それとも

まだとびきりの若さでしょうか

誰にも

答えられそうにない

問い

              (茨木のり子

 俵津市民1000人が、1000の問いを立て、カンカンガクガク・ケンケンゴーゴーやったら、とてもおもしろい俵津が出現しそうな気がします。(同様に、明浜市民が、西予市民が、人数分の問いを立て、同様にやったら、とても面白い明浜や西予市が生まれそうな気がします)。

 コロナ禍の今は、まことにもって苦難の時期ですが、一面、いろいろと考えて置くにはいい時期です。この時に、どう考えたかで、後の差がでてくるような気がします。ただし、深刻な問いもそうでない問いもここでは、自由な遊びとして思考の翼を思いっきり広げましょう。

 あまり面白くないかもしれませんが、二三❓クエスチョンを出してみましょう。

Q1 野福峠を日本一の桜の名所にできないか?

 さくら町・俵津。野福峠、ボラ小屋、宮崎川土手の桜が、異常なくらい早い開花を迎えています。もう、一本の木全部が満開なのもあります。全体でも三分くらいにはなっているのではないでしょうか。驚きです!この冬大雪が二度も降って、休眠打破が起こったこと、以後極端な寒暖差がなく気温が順調に上昇したことが理由としてあげられるそうです。

 さて、俵津人の誇り、アイデンティティーの拠り所である野福の桜。伊予の八勝の一つ。これをさらに格上げして、全国一の桜の名所に出来ないものでしょうか。俵津に、全国区に名乗りを上げることができるものがあるとしたら、おそらくここだけでしょう。このことだけでしょう。無論そんなヤボな野望(おやじギャグです!サブ―!)など抱かずに、わたしたちだけが楽しむ花と場所でいいのです。だから遊びの問いなのです。

 必要条件は、あります。峠の眼下に広がる宇和海の見事な眺望。山の中の桜はいくらあってもどこか暗い。ここの桜は、この眺望のおかげで、みごとな輝きを放ちます。もう一つは、植栽面積というか植え代がひろいということ。発想を、峠道の両端=沿道に限らなければ、周辺の山々、かんきつの荒廃園なども対象にすれば、植栽本数の点でも優位にたてます。

 ただ、峠ですから、上野公園のような広場、大勢の人が花見をする場所の確保は難しい。ない。駐車場の問題もある。また、麓の集落地まで人を下ろさせて、何らかの経済効果を生む施策も講じにくい。

 この季節、テレビが毎日のように伝える全国の桜の開花情報、そこに俵津・野福峠が毎年当たり前のように出るようになれば・・!そんな夢を見るのです。

 この問題、これ以上は言うのは控えましょう。「保存会」や「スマイル」の人たちが懸命に頑張っているからです。以下に俵津野福峠桜保存会のホームページアドレス、掲載しておきます。見て下さい。

         https://tawarazu.jimdofree.com/

Q2 「ナニコレ珍百景」に応募できるものはないか?

 わたしの好きなテレビ番組の一つに、テレビ朝日系(5チャンネル)の「ナニコレ珍百景」というのがあります。全国のオモシロイコト大好き人間たちが風景や看板などの人工物で、これは珍しい・面白いと思ったものを投稿する視聴者参加型番組です。俵津に応募できるものはないでしょうか?これをあれこれと考えて見るのも面白いのではないでしょうか!ディスカバー・タワラヅ、俵津再発見、にもつながるとおもうのです。

 この番組、昔はジャンルというか対象の「珍百景」の範囲は狭かったのですが、今はもうあらゆることが応募可能になっています。人間のパフォーマンスまでかまわなくなっているのですから、俵津にもありそう?!俵津人にも出来そう?!になってきました。

 人間だれしも景色や天井の節穴や壁板の木目模様などが、人間や動物の顔に見えたりすることは普通にあります。三瓶の寝観音などは典型です。みんなが探せばどこかにきっとあると思うのです。

 ただ、応募して仮に「珍百景認定!」されても全国的に有名になるなどという事は考えてはいけません。あれほど認定作があったらだれも長期間覚えてはいないでしょう。だから、あくまで遊びです。俵津人の自己啓発、脳内ドーパミン(?)発露運動です。

 どうです?!考えて見てもらえません?!

Q3 俵津を舞台に映画を作るとしたら?

 タワラヅ・TAWARAZU、をドーンと表舞台に出したい!どうしたらいいでしょう?

 一つは、「映画」をつくること(?)。

 どんな映画がいいでしょうか?わたしは、オムニバス映画にします!

① まず、1700年前、俵津に弥生人が住み始めた頃の新田は駄場。当時はそこまで海が迫っていた。雄たけびを上げる弥生人。われらの大先祖。「2001年宇宙の旅」のプロローグのように。

②大浦に人が住み始めた平安時代空海がやって来て、法を説く。

③江戸時代。俵津湾に巨大なクジラがやって来て、闘う男たち・女たちの勇壮な物語。若者の恋。

④明治・大正。長崎東海の物語。俵津製糸の物語。

⑤戦争の物語。日清・日露・日中・太平洋 。

⑥「さくら」のものがたり。

 どうです?!

 脚本家よ、出でよ!演出家よ、出でよ!俳優よ、出でよ!カメラマンよ、出でよ!広告マンよ、出でよ!あらゆる才能よ、出でよ!

 

 つがなし・とっぽさくを書きました。一笑に付してください。なにかアイディア、思いつきましたら、教えてください。

                        (2021・3・21)

寄稿エッセイ

            森発言に思う

                         胡瓜

 世界の人種差別人権侵害などの報道などに関して言えば、森発言などそれほど特異なことであると、私的には、取り上げるほどのことではないと思うが、世界の潮流はそうではないのであろう。

 その世界の潮流からみれば甚だ看過できない発言であり許されない言動であると言えるのであろうが、この年代の老人の持っている体質として、女性蔑視とか差別以前の体に染みこんだ女性観からでた、何気ない一言だったのではないかと思う。

 この発言をスクープしたニューヨークタイムスの記者もこの森発言にいたる背景を今少し取材し記事にしていたならば、随分と世間の間で、とりわけそういう問題に敏感な人たちの受け取り方も違っていたのではなかろうかと、思うのである。

 私は別に森元総理を擁護する気持ちもないし、ましてやその発言自体を是とするものではない。

 最近よく言われる言葉にジェンダーという言葉があるが、これなどそもそも生物学的に男女を分けた言葉である。しかしその中間の性を表現する言葉がないので、一義的にジェンダーという言葉を使用しているのであろうが、ホモとかレズとか日陰の印象の強い言葉ではなくもっと気の利いた表現を、どなたか発明していただきたいものである。

 縄文弥生の時代のように食物を得ることが生きることであり、生きることが食物を得ることに直結していた時代から、社会の発展と生存環境などの変化によって徐々に人間の心の中に中性という概念が、醸成されていったのだろう。

 それを裏付けるように中間の性の存在は今に始まったことではなく、昔からあったものである。ちょっと意味合いはずれるかもしれないが、戦国大名・寺院などでは色目のいい少年を小姓としてそばに置き稚児愛と称し、彼らを愛でていたものである。

 本能寺で信長とともに果てた森蘭丸なども、そうであった。

 当時十八歳であったらしいが月代をそることも許されずその生涯を少年のいでたちで終えなければならなかった蘭丸の忠義にあるいは忠誠心に、武士の一分を見る思いがする。

 話が横道にそれた感があるがこんなことを書いたのは、森発言はそのようなところにまで意識した発言ではなかったのではと言うことと、蘭丸の無念さに顧みて「あわれ蘭丸」とそれが言いたかっただけである。

 私から言うとすっと聞き流しておけた発言が、森委員長解任に至るまでの騒動になるとは、森氏自身も思わなかっただろうし全国のみなさんもそう思われた方が、多かったのではないかと思う。

 森氏個人の発言であるにもかかわらず、立場が立場だから仕方がないところがあるかもしれないが、それを組織の体質的な問題だと事柄をすり替えられて、挙句の果てに日本人は女性の人権を無視し女性蔑視の国柄であると、あちらこちらから批判される始末である。

 そんな批判にあおられ聖火ランナーを辞退したりボランティアを辞退したりと、まったく腑に落ちない行動の続出に私は、違和感を抱かざるを得なかった。

 何が違和感であるといっても森氏の世間で言われている女性蔑視発言が、なぜ聖火ランナー辞退と結びつくのかわからないことが、違和感として胸の内に浮かんできたのである。

 東京オリンピックと全く無関係だとは言えないかもしれないが、これらは切り離して対処するべき問題であると思うのである。

 それらの行動は一見正義であるかもしれない。それらしく見えるかもしれない。だとしてまた正義の前には誰も反論できないことを是として、振り上げたこぶしが正義だと誤解して声高に批判するのは正しいと行動することが、正義だと言えるのであろうか。正義はいい迷惑である。言い換えるならばこれらは白を黒と言い換える論理となんら変わらず、詭弁であると言われても仕方のないところである。

 それはあくまでも森氏自身の問題であり組織の問題ではないのである。その結果どういうことがあったのかといえば、女性理事を増やして頭数を整えただけである。

 それで男女平等とか女性の人権尊重などが達成されたと評価している者たちには、今回のことの本質が見えていないと嘆かざるを得ないのは私だけであろうか。

 本質とは何か。組織を運営していくうえで重要なのは能力のあるものがそれを、担うということである。あくまでも能力によって理事は選出されるべきで、そこに男女の差などが入り込む余地などがあってはならないのである。そのうえで男性ばかり女性ばかりとなってもそれはごく自然なことであり、そこに女性蔑視また差別などと言うことは、起こりえないのである。

 それを理事の数を男女同数にしたので男女同権平等などとどこを向いて言っているのか、しらけるばかりである。

 かつて司馬遼太郎は「この国のかたち」という著書で、明治という国家は昭和とは全くべつの国家だと書いていたが、その司馬遼太郎の懸念がいま日本の国民の心身をむしばんでいっているように思う。今一度幾多の犠牲の上になし遂げられた明治開国の原点に立ち返る時が、来ているように思う。

 最後に森元総理には「そんな女の尻に俺は敷かれているんだよな」と一言付け加えておけばこれほど大事にならなかったかもしれないと思うが、いかがであろうか。

 

●morino-shimafukurouからのコメント

 胡瓜さんからご寄稿いただきました。これでやっとわたしのブログが、念願の「交流ブログ」になりました。胡瓜さんありがとうございました。みなさま、どうかご感想などおよせください。また、お原稿などお寄せいただければ、まことに幸甚です。

                     (2021・3・16)

 

 

                           

                           

「虔十公園林」を読む。

 「虔十公園林」。わたしが「宮沢賢治」に初めて触れたのが、この作品でした。小学校六年の時、学研の月刊誌「6年の学習」に挿し絵入りで全文が載っていたのです。物語はこんなです。(できるだけ原文を使って、十分の一くらいに要約してみます。)

 「少し足りない」と思われていた「虔十(けんじゅう)はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいているのでした。雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。」「風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりで笑えて仕方」ありませんでした。でも、そんな虔十を子供たちはばかにして笑っていました。

 ある時、家の人達に虔十は云いました。「おらさ杉苗七百本、買ってけろ。」「虔十の家のうしろに丁度大きな運動場ぐらいの野原がまだ畑にならないで残っていました。」地味のわるい「杉植えても成長しない処」でした。お母さんと兄さんは反対しましたが、お父さんは「買ってやれ、買ってやれ。虔十ぁ今まで何一つだて頼んだごとぁ無ぃがったもの。買ってやれ。」と云って買ってもらったのでした。兄さんに手伝ってもらって虔十は「実にまっすぐに実に間隔正しく」植穴を掘り植えて行ったのでした。

 「杉は五年までは緑いろの心がまっすぐに空の方へ延びて行きましたがもうそれからはだんだん頭が円く変わって七年目も八年目もやっぱり丈が九尺ぐらいでした。」ところが、そこは子供たちの遊び場に一変したのです。「全く杉の列はどこを通っても並木道のようでした。それに青い服を着たような杉の木の方も列を組んであるいているように見えるのですから子供らのよろこび加減と言ったらとてもありません。みんな顔をまっ赤にしてもずのように叫んで杉の列の間を歩いているのでした。」

 ある年の秋、虔十は「チブスにかかって死にました。」次の年村に鉄道が通り、瀬戸物の工場や製糸場ができました。「そこらの畑や田はずんずん潰れて家がたちました。いつかすっかり町になってしまったのです。その中に虔十の林だけはどう云うわけかそのまゝ残って居ました。」虔十の家の人たちが「こゝは虔十のたゞ一つのかたみだからいくら困っても、これをなくすることはどうしてもできない」と云って売らなかったのです。

 「虔十が死んでから二十年近く」なって、「ある日昔のその村から出て今アメリカのある大学の教授になっている若い博士が十五年ぶりで故郷へ帰って来ました。」杉林で遊ぶこどもたちの姿を見て、校長さんに事情を聴いた博士は言いました。「ああそうそう、ありました、ありました。その虔十という人は少し足りないと私らは思っていたのです。いつでもはあはあ笑っている人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたのだそうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。たゞどこまでも十力の作用は不思議です。こゝはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでしょう。こゝに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するようにしては。」「さてみんなその通りになりました。」「『虔十公園林』と彫った青い橄欖岩の碑が建ちました。」

 「昔のその学校の生徒、今はもう立派な検事になったり将校になったり海の向こうに小さいながら農園を有ったりしている人たちから沢山の手紙やお金が学校に集まって来ました。」「虔十のうちの人たちはほんとうによろこんで泣きました。」「全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さわやかな匂い、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいわいが何だかを教えるか数えられませんでした。」「そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと落としお日さまが輝いては新しい奇麗な空気をさわやかにはき出すのでした。」(ちくま文庫版全集6)

 小学生のわたしは、(いまでも筋を覚えているくらいですから)、この童話がいたく気に入ったのです。

 わたしも田んぼの土手に寝転んでぼんやり空の雲を見ているような子供だったので、虔十に親近感を持ったのです。共感したのです。

 それから、人から「足りない」と思われていた虔十が、実に規則正しく杉苗を植えたことや植える土地をわざわざ指定して植えたこと、木が大きくならないことが肝要なこと。そしていつかは村の子供たちが歓喜して遊ぶ場所になる未来を見通していたのではないかと思われる企画力・構想力・実行力を備えていたことに唸ったのでした(虔十はホントは天才だ!)。

 そして何より、虔十の無償の行為が、そのまま自然と大きな「まちづくり事業」になっていたこと、に感激したのでした。(もちろんこういう言葉で当時のわたしが「気に入った」理由を説明できたはずはありませんが)。

 今回は、たったこれだけのことを言うためにだけ、「虔十公園林」を取り上げました。

 でも、いまこの作品を読み返してみると、それだけではないことをわたしたちに教えてくれているような気がしてきました。

 農業や農村の魅力。虔十のような者を包摂する家族や地域のあたたかさ。自然に感応し、共感し、対話・交感することの素晴らしさ。人は誰でもが人を感動させることができること。その感動や共感が人々の協力や資金を呼び込み、なにものかを作り上げること。つまりは、「本当の幸い」のありかを示しているように思われるのです。

 賢治は虔十にたしかに自分を重ねています。「雨ニモマケズ」の詩で自らを「デクノボウ」と呼んでいますが、そこに綴られた願望を心底からもっていたのでしょう。文中「十力(じゅうりき)の作用の不思議」という言葉がありますが、仏(菩薩・如来)が人々を救うために使う十種の力のいづれかが虔十にも備えられていたと確かに言えます。

                          (2021・3・5)

 

玉井さんの本が届きました!

 とても嬉しいことがありました!

 わたしが畏敬してやまない、というか大ファンの、松山の玉井葵さんから、その著書が送られて来たのです。しかもできたばかりで湯気が立っています。

 A4版・箱入りでオールカラーの大きくてまことに贅沢な素敵な本です。タイトルは、『ぐうたら通信 玉井葵からあなたへ 2020ー2018』。玉井さんがこの40年間出し続けてこられた通信の、最近の三年分を丸ごと一冊にしたものです。しかも通常と逆で新しいものから古いものへと並べられた編集の妙が効いています。ページをめくるだけで楽しい本です。

 このコロナ禍のなかで、みんなが委縮し不平や不満をため込み、ストレスを感じ続けている中で、このような「遊び」(あえて遊びと言わせていただきます)を、軽々と飄々としかも大胆にやってのける玉井さんにウットリ、です。快哉、です。この余裕、こころの大きさ、ほんとうに感激です。一陣の爽やかな風が、頂いた時、私の心の中で吹き抜けるのを感じました。

 玉井さんは、人生の達人です。玉井さんは、好奇心の塊です。全方位、あらゆることに関心を持ちます。玉井さんは、行動家・動く人です。愛車・ダイハツタントの年間走行距離三万キロ、が物語っています。玉井さんは、勉強家です。玉井さんは、話す人です。玉井さんは、食べる人です。また、多芸多才な趣味を持つ人です。陶芸・水彩画・短歌・俳句etc. 

 だから、「本=通信」はそれらの記録です。まず「日々、こんなことあんなこと」が最初のページにあります。世の中というか日本と世界の政治・経済・社会等々のあらゆることが論評・コメントされます。ちょっとタイトルだけ少し挙げてみましょう。●「桜の会」前夜の夕食会への支出があった、ということで・・・●「鬼病」はいつ、どう収束するものか●与島沖の沈没事故で思い出す紫雲丸事故●日本学術会議会員選任拒否の先に見えるもの●核兵器禁止条約を結ばない「唯一の被爆国」●鬼北町の人口が1万人を割った●大坂なおみに拍手、・・・(ああ、タイトルだけでも全部紹介したい!)。その指南力は抜群です。わたしはここから「世界の見方」「ニュースの読み方」を教えてもらっています。

 「松山文化史・明治年表」(城戸八州編から)があります。「ちょっとお出かけ」「伊予の式内社を巡ろう」で神社仏閣を巡った記録が写真入りで紹介されます。「本棚の隅」や「本読(酔)み千鳥足」のコーナーでは、無類の本好きの玉井さんの魅力満載。目くるめく世界が開陳されます。その興味の多方面さ、スゴイの一言です。そして、毎月の行動記録、どこへ行った、誰と会った、何を見た、何を食べた・・・。これが実に楽しい。すべてカラー写真付きだから臨場感たっぷり。(そのほかまだまだ書ききれないくらいの記事がありますが今回はこのくらいに)。

 残念なことは、この本、市販はされていないこと。毎月の「ぐうたら通信」の読者のみの限定本だそうです。

 玉井さんの「プロフィール」です。

 玉井葵(たまい あおい)。1944年満州国哈爾浜省(現・中国東北地方)生れ。松山北高等学校、愛媛大学を経て、愛媛新聞社入社。退社後は現在の悠々自適が。「伊予のぐうたら狸」を自称とのこと。

 著書。①『凡平ー「勇ましい高尚な生涯」を生きて』(2000)

    ②『お袖狸、汽車に乗る』(2003)

    ③『伊予の狸話』(2004)

 すべて創風社出版(松山)。読んでみたいと思われた方は、同社HPから注文してください。http://www.soufusha.jp/

 それでは出血大サービスです。『ぐうたら通信』の中から、丸ごと1ページここに書き写します。是非是非、ご覧あれ!(No.226/2019.08/01-page2 同書106ページ)

明浜通い 40年  

不思議の郷の、不思議な人たち

 梅雨の晴れ間、明浜の高間タエさんを訪ねた。いつものように、原田義徳さん、岡崎憲一郎さんが来てくれて、とりとめない話に時間が過ぎた。話題はまず、カラス。普段は4羽しかいないはずのカラスがある時、何十羽も来て、トンビを巣から追い出してしまった。ビワのなる時期だった。どこからか「出稼ぎ」にきたに違いないという。「出稼ぎ?ビワを摘みに?どこから」「高山か、その辺じゃろ」。

 イノシシ、ハクビシンと登場人物(?)の話が延々と続いて、ちっとも飽きない。私の帰りの時刻が迫っていなかったら、いつまでも続いていただろう。

 こうやって、私は明浜に癒されてきた。

 思い出してみると、この町へ通い始めて40年は経っている。私をそんなに受け入れ続けてくれた人たちが、外にいただろうか。

 明浜は私にとって、不思議な人たちが暮らす不思議の郷なのだ。

 明浜へ初めて出かけたのは、無茶々園を取材した時だ。それははっきりしている。1978年(昭和53年)に特集面の取材班に配属されて、楽しく飛び回っていた時期だ。有機農業をやっている若者グループがあると聞きつけて、出かけた。新聞社の部は基本的に地域割り、縦割りだった。それに縛られない特集面担当に所属していなかったら、行かせてもらえなかっただろう。

 狩江公民館の奥の一室が梁山泊で、片山元治さんたちメンバーがたむろしていた。無茶々園が紙面に載ったのは、その時が初めてだった。

 その狩江公民館の主事をしていたのが原田義徳さんで、彼との付き合いが、すべての始まりだった。彼を紹介してくれたのは、松山の公民館主事のNさんで、主事つながりであったらしい。

 明浜という所は、何もかもが重なり合っていて、原田さんと付き合うと言うことは、原田さんの顔の広さもあって、その地域の各層の人と交わるということだった。岡崎の憲ちゃん、宇都宮氏康さんたちとは篤く付き合っている。無茶々園のメンバーともあらためて顔見知りになった。現在も付き合いのある人たちはみんな、彼の縁だ。

 明浜通いの初め頃に、大きなイベントがあった。80年夏の「燃え狂え!フォークキャンプ・イン・お伊勢山」だ。青年団が主催したが、私たちは「イワちゃんのエイコちゃんへのプロポーズ大作戦」だとはやし立てた。作戦は目出度く成功し、二人は今、後継ぎさんとともに、ミカン農家をしている。

 その後、私は整理部に異動になった。内勤暮らしが面白くなかった。ある日、勤めを終えてから明浜に釣りに出かけた。午前3時は過ぎていた。浜へ着くと、原田さんが待っていてくれた。「まさか」と思った。感激した。

 そういえば、いつだったか、明浜でわいわいガヤガヤやった後、私が帰るのと一緒に、松山へ行くという。「皆さん元気だね」などと言いながら、松山へ帰り着いたら、彼らは明浜へ帰るという。私を送ってきてくれたのだ。感激しないでいられるだろうか。その時の一人、幸地権一さんはその後すぐ、亡くなられた。仲間が彼を偲ぶ文集「幸せ配達人」を出した。その本は今も、書庫にある。拡げると涙が出て仕方がない。

 野村や松山で、メンバーで飲んで歩いたこともある。あれは楽しかった。みんな結構節度があるのだ。飲んで崩れてもめごとになるなどと言うことはなかった。

 役場職員の原田さんが企画したカッパ祭りやさくらまつりは、毎年通った。孫たちが小さい頃で、一族連れての明浜通いは楽しかった。高山の海岸での勇壮なお祭りや、渡江の盆踊りの口説きは、一生に一度は見ておくべきものだ。

 陶芸の高間タエさんとのつながりも、原田さんが付けてくれた。高山の定時制高校から東京の美大に進学するという、ちょっと信じがたいキャリアのタエさんは、スペインでその国の人と結婚し、故郷の高山で窯を焚いていた。彼がつないでくれて、月2回、お稽古に通った。片道2時間半かけて、10年以上通った。真冬は少し厳しかったが。

 ただし、ちっとも上達しなかった。私は何をやらしても上達しない人間で、「それもまたよし」と生きてきた。

 そうそう、高間家の猫、ソノラのことにも触れておきたい。私は猫が苦手なのだが、彼女・ソノラだけは付き合えた。真っ黒のおばあさんは、私が弁当を拡げると足元へ寄ってくる。・どうかすると膝に上がってくる。彼女が亡くなってどれくらい経っただろう。ちょっと懐かしく、切ない。

 明浜など4町が合併して西予市が出来た時、私は「明浜というアイデンティティーはなくなる」と指摘した。それがどうなったかは知らない。が、「明浜は明浜」であり続けてほしいと願っている。

※ 注;「高山の祭り」のカラー写真付きです。

                         (2021・2・26)

 

 

西田エッセイ  第十回  (最終回)

西田孝志・連載エッセイ「私の映画案内」

         「ブレクジット(離脱)」

 

ブレクジット選挙の真実に触れた映画

 映画「ブレクジット」2019年・イギリス。は、極めて興味深く、注意を引く映画です。英国で行われた、EUからの離脱を問うブレクジット選挙は、世界史に残る大事件なのですが、その詳細や内容についてはあまり詳しくは報道されてはいません。この映画を見て、私は始めてブレクジット選挙の、真実に触れた気がしました。ぜひ見て欲しい映画です。

 この映画は、関係者の証言や事実を元に製作された映画で、その内容は信頼に値します。特に離脱派が、どの様な戦略をたて、どの様な技術を駆使し、勝利した結果、何が残りその後何が起こったのかを克明に描いています。それは正に、大衆への高度なマインド・コントロールとでも言うべき選挙戦術の始まりを告げるものでした。

■離脱派を率いたのは、どんな人物なのか、

 離脱派を実質的に率いたのは、政治的にまったく無名の、元首相報道官ドミニク・カミングスと言う人物でした。離脱、残留、共に政府から公式に認められた支援団体が認定されましたが、離脱派団体のトップに立ち団体を率いたのがドミニクでした。彼はどんな人物なのか、一言で言うなら、思想に置いては理想主義者、行動に置いては現実主義者、相反する性格がそのまま内在した様な、とにかく複雑な性格の男と言って良いでしょう。

■離脱派の、大衆へのマインドコントロール選挙戦術とは

 この男が選挙に際し使った、幾つかの革新的な手法は特筆すべきものと言えます。一つは強烈で短いキャンペーン標語の採用です。彼はオバマ大統領の「イエス・ウイ・キャン」を参考にしたと言っています。彼が決めたのは「主導権を取り戻せ!」と言う言葉でした。取り戻す、と言う事は、主導権を失った、と言う事です。英国がEUに加盟した際、何についての主導権を失ったのでしょうか、何も失っていないのです。反対に、人と物の自由な移動に依り得たものの方が多かった筈なのです。しかし、この標語に依り大衆は自分たちの生活の多くの部分がEUに依って奪われたのだ、と感じる様になって行きました。

 次に彼は、一日3億5千万ポンドのEU負担金、と言う出所不明の出鱈目な数字を打ち出し、そんな大金が恰も大衆の懐から流れ続けている、かの様に宣伝しました。まったく事実無根の数字です。だが多くの人々がこれを信じる様になった、額が大きければ大きい程、被害者意識は大きくなるのです。

 移民政策に置いて、彼はもっと巧妙でした。彼の支援団体が反移民キャンペーンの表に出る事は決してなく、離脱派の極右政党幹部を専らメディアに露出させ、人種的な偏見や差別の非難を彼らに引き受けさせたのです。そして彼は、EUに加盟の見込みはないが、英国民が心理的に一番嫌いなトルコを標的にして、EU加盟を続ければ、一千万人のトルコ人が移住して来る、と恐怖を煽ったのです。覚えていますか、ヒトラーの反ユダヤキャンペーンを。恐怖と憎しみは、人間が最も信じやすいものなのです。ヒトラーはこうも言っています、「大衆の理解力は小さく、忘却力は大きい」と。

SNSを駆使した果てに

 そして彼ドミニクが選挙運動の中で最も力を注ぎ、最も成功を収めたのが、SNSに依る国民の情報の不正な取得と、その情報に依る心理操作を伴う、不正な選挙キャンペーンだったのです。この出来事はブレクジット選挙に留まらず、後のアメリカ大統領選にも大きな影響を与えました。

 少し詳しく説明しましょう。彼はまずカナダのアグリゲートIQと言うデータ分析会社に接触しました。そこで彼は人々が日常的に使用しているSNSへの書き込みや閲覧履歴などを、アルゴリズムを使い集約させる事に依り、その人物の趣味や性格、支持政党、投票行動の有無、さらに恋愛中かそうでないか、まで把握できると教えられるのです。アグリゲートIQの代表は、彼の眼の前でいとも簡単に、今まで投票に行った事のない300万人の人々を表示して見せたのです。

 次に登場するのが、ケンブリッジ・アナリティカと言う、選挙のサポートや宣伝、情報分析を行う会社でした。この会社はSNS上に送り出す広告を専門的に扱っていますが、送る相手の個人情報に依って、個人を分析し、その個人の好みにあった広告内容に自在にデザインを変更する事が可能でした。設立者はこの手法を使い、政党の支持率を実際に数ポイント上昇させました。この会社の持ち主が、スティーブ・バノンです。後にトランプ大統領の首席補佐官となる人物なのです。

 ドミニクはこの2社を使い、イギリスのSNSユーザーに対し、選挙期間中に10億件の広告を流しました。その効果が、実際にどれ程のものであったのか、その立証は難しいと思います。しかし、誰もが残留派が勝つ、と思っていたのです。いや世界中がそう思っていたのです。それが覆りました。確かに効果はあったと思います。

アメリカでも同じことが・・・

 選挙後、両社はアメリカへと渡りました。両者をトランプ候補に引き合わせたのは両社と関係のあった、大富豪の実業家、ロバート・マーサーと言う人物でした。彼は大統領選におけるトランプの最大の支援者となり、あらゆる面で彼を援助しました。

 その後、何が起こったのか、ケンブリッジ・アナリティカとフェイスブックの間における8,700万人の個人情報流出問題でした。フェイスブックから個人情報が抜き取られ、ネガティブキャンペーン広告が洪水のように送り込まれることに怒ったユーザー達が訴訟を起こしたのです。

 2018年、フェイスブックマーク・ザッカーバーグアメリカ議会の聴聞会で、個人情報の保護、管理が甘く不適切だった、と謝罪しました。ですが、アメリカの人々はそんな言葉を信じてはいません。なぜならフェイスブックはトランプの選挙キャンペーン事務所で、ケンブリッジ・アナリティカと机を並べて、仕事をしていたのは周知の事実だったからです。

■キャメロンは何故ブレクジット選挙に踏み切ったのか

 最後にキャメロン首相は何故ブレクジット選挙に踏み切ったのでしょうか。離脱の要求は20年前からあり、その声はマグマのように英国の地下に溜まり続けていました。いつか、誰かが実行しなければならなかったのです。議員にあまり人気のないキャメロンが首相に立候補した時、離脱派の議員がブレクジット選挙を条件に、彼を首相にしたのか?あるいはキャメロンが首相になる為に、議員たちに国民投票を持ち掛けたのか?、今となっては分かりません。

■イギリスはカオスの時代を迎えるのか

 いづれにせよ、双方に残されたのは抜き難い不信と敵対心、そして、癒し難い感情の対立でした。事実、選挙期間中に残留派の女性議員が、離脱派の若者に射殺されました。本当に悲劇です。イギリスは最早誰にもコントロールの出来ないカオスの時代を迎えるのでしょうか。今起こっている事は、いつか私達にも起こる事です。眼を開けて時代を見つめましょう。

 それではこの辺で、ゴキゲンヨウ・・・・・。

 

●morino-shimafukurouからのコメント

 2016年には、二つの世界的大事件が起きました。6月の「イギリスのEU離脱」、11月の「トランプ大統領の誕生」。わたしは、残留派が勝つと思っていました。ヒラリー・クリントンが「ガラスの天井」を突き破ると思っていました。わたしの予想は、どちらも見事に外れました。二つの事件の裏側で、このような企て・策動があったとは。驚きです。西田くんの時代を見る目の確かさにただただ敬服するばかりです。

 そしてわたしは、同時にある思いにとらわれて、慄然としました。もし日本で、政府自民党が「憲法改正国民投票」を仕掛けた時、たとえば電通と組んで同様のキャンペーンがなされたならば、同じことが起こるのではないか。・・・

 西田くんの「エッセイ」は、(まことに残念ですが)、今回で終わりです。彼には「俵津ホームページ」で15回、わたしのブログで10回、書いていただき、素敵な「にぎわい」をつくっていただきました。俵津出身者で、このように求めに応じて、気軽に「いいよ」と言って原稿を書いてくれる人がいるという事は、本当に素晴らしいことだと思います。心からあらためてありがとうを言いたいと思います。

 ここで、西田孝志(にしだ こうし)くんのことを少し書いておきます。

 彼はわたしの同級生で、中学2年まで俵津にいて、その後家族で大阪へ引っ越して行きました。無類の映画好きでした。八千代座(若い人は知らないかもしれませんが、かつて俵津にあった映画館です)にかかっていた映画は、当時ほとんど見ていたのではないでしょうか。

 また、無類の「本好き」でした。同級生の女の子たち(みんな、おばあちゃんになってしまいましたが)の間でこんな“伝説”(!)が、今でも残っています。「孝志さんは本を読んでいる時、眉毛を一本一本抜く癖があって、一冊読み終わった時には片方の眉毛が、なななんと、無くなっていた」!!。(笑)

 俵津小・中学校の図書室の本はほとんど読んでいたのではないでしょうか。わたしの記憶にあるのは、中学の時、俵津公民館で借りたと言って、江戸川乱歩全集を読んでいたことです。クリーム色のごっつい本でした。

 社会人になってからは、旅行会社に勤めて、世界中をツアーコンダクターとして飛び回っていました。

 小説を書くのが趣味で、すでに400字詰め原稿用紙1000枚以上書き溜めているとか。「映画エッセイ」も、まだ300回は書けるとか・・・!

 そこでわたしは、彼に「ブログ」の開設をすすめました。余生を毎日それに投じよ!と。「私の映画案内」「私の読書案内」「私の旅案内」「小説」、エトセトラ・エトセトラ・・・。

 近々、彼のブログが立ち上がるかもしれません。楽しくてためになる蘊蓄の数々が読めるといいですね。そのときは、“リンク”することにします。楽しみにして、待ちましょう!

                     (2021・2・13)